ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』と語りについて
前置きとして、私の記事は学部卒程度の素人、しかも在学中真面目に勉強していなかったものによる感想・駄文です。徒然なるままに思ったことを書き連ねているだけですので、問題があれば謝罪・訂正・削除等対応いたします。
今回、記録を残したいと思ったのは著ウンベルト・エーコ 日本語訳橋本勝雄 2016年2月東京創元社発行の『プラハの墓地』です。おおもとのイタリア版は2010年に発行されています。翻訳は2013年に発行された版を最終的に参照されているそうです。(訳者あとがき P529)
内容としては、文書偽造技術を持つ主人公シモーネ・シモニーニの日記によるさまざまな事件の回想を語り手と読み進めていくもの。1830年~1898年の記録なので、2つの世界大戦前、革命を経てナショナリズムが広まった時代です。イタリア統一、ルイ・ナポレオン、ドレフュス事件、さらにシオン賢者の議定書等世界史に詳しくない私でも知っている事件の裏に一人の人間が関わっていたというエンタメ性もあり一気に読み進めてしまいました。しかもこの本の主要登場人物名は主人公以外実在しているとのことで、物語の時代に引き込まれます。
私が気になったのは、この本の語りの構造です。
この本はまず、日記の書き手であるシモニーニ→シモニーニが記憶を思い出して書いた日記→それを読み進める語り手→(作者)→読者というかなり複雑な入れ子構造となっています。
この一緒に読み進める語り手の存在について考察します。
一般的に読者に対して信用できる語り手と信用できない語り手という分類があります。基本的に語り手は信用してもよいとされるものですが、一方で信用できない語りによる物語により活きる、進行する物語もあります。叙述ミステリはその一例かと思われます。また、信用されうる語りの外に思いを寄せることで生まれる解釈もあります。
この『プラハの墓地』の語り手について考えます。基本的にはシモニーニの日記で物語が進むのですが、ところどころに語り手による独自の語りが挿入されます。1章の記述において、語り手は老人(シモニーニ)の様子を外から描写しつつ、語り手の立場として一緒に読みながら語っていくことを表明します。“私たちはこれから…(〈読者〉と一緒に)知りつつあるのだから。“(エーコ P12)この文から、この語り手はシモニーニの物語を外から眺めつつも、神のように見通している訳ではない、つまり読者とかなり近い立場にある語り手といえます。
この語り手と読者の近さは、シモニーニの日記の信用性の保証ではないかと考えます。記憶を思い出すための回想、陰謀の数々といった内容からシモニーニの日記の信用性はかなり危ういものです。さらに、偏見などの個人の思想がダイレクトに盛り込まれているのも信用できない語りとして見られる点かと思います。
しかし、日記を手に取り一緒に読み進める語りがいることで、読者は謎めいた個人の秘密を信用たる誰かと共有しているように思い、シモニーニの日記にのめり込んでいくことができると考えました。ある意味、読者と語り手が共同で虚構に真実味を与えている作品だと思います。これが行き過ぎると、語りたい人と読む人が意味を作ってしまい、偽文書が真実となる・・・まで読むのは行き過ぎですが、物語に真実を持たせるという技術がとても素晴らしい語りかと思います。
ネットで調べた程度ですが、著者は虚構と真実についての研究にかなり詳しく、文学論も出ているようです。作品とともにこれらも読んでいく予定です。とりあえず『薔薇の名前』読む。以上。
久しぶりに軽くだけど真面目に文章書いたー!!というか語り分析は苦手なのになぜやったし。しかしそれだけエーコの文の語りが最高だった!!!