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人魚の涙 29

 路面が濡れていた。
 陽が陰ると、街灯の少ない島は闇の底に沈む。
 雨は上がっているが、湿度を含んだ重い空気が澱んでいる。
 行き交う車も数少ない。夏至を迎えたこの時期であっても、18時には信号機は点滅信号になる。全島で信号機は2本しかない。それで捌ける程度の交通量だ。
 18時になると、町内放送で音楽が流れる。その音楽を、島の小中学生は門限と捉えている。つまりそれ以降に自宅を訪問すれば、子供らには必ず会えるということだ。
 仕事を予定通りに20時前に終えた。
 私の右手にはケーキの小箱がある。
 シナモンロールにタルトを選んだ。
 最近、移住者が開いた洋菓子店だ。
 緩い歩みでも、島も変貌している。
 こうして移住者の開業事業にも、響ちゃんのように里親留学についても役場の補助金が出ている。
 さてカルテにあった住居はこの辺りだと、検討を付けた。
 曇天のために既に足元は覚束ない暗さになっている。それをLED電灯の硬質の灯りが円錐形に浮かんでいる。
 そこに、響ちゃんがしゃがんでいた。
 先にも言ったが、小中学生が外に出ている時間帯ではない。
「お義母さんから、外に出されているんやて」と息子の言が脳裏に駆け巡った。
 長い黒髪を背中でひとつ絞りにして、赤い髪留めをつけている。それが小動物のように揺れている。
 声を掛けようとして、脳裏に刷り込まれた、意味を為さない声が立ち上がる。
《やっぱりそうだ》
 足が止まった。私はこの種、の声を識っている。
《やっぱりこっちのひとだったね》
 肉声のような個性があるわけではない。左脳の言語野中枢に液晶パネルがあるとしたら、そこに誰かがキーボードで叩いたものを眺めている感覚に近い。音声で獲得された意思ではない。
《きみなの、か?》
《ずっと待ってたよ》
《響。響ちゃん、なのか?》
 彼女はゆらりと立ち上がる。髪にしっとりと雨滴が沁みていて、それがすっと流れていく。振り返った顔には笑みはない。蒼みを帯びた虹彩が硬質な光を鋭く反射している。
「私の、本当のお母さんに逢わせてあげる。先生とも顔見知りだよ」
 桜花を含んでいるような、柔らかな唇から声が流れてくる。
「海に行くよ」
「ちょっと待って。子供が外に出ていい時間じゃない。お義母さんも心配するし。ねっ、ケーキを持ってきたんよ。この間のお礼が出来てなかったから」
「・・その人は関係ないよ、家に入れてくれないんだから」
 そう言って響が木製のつっかけで歩き出す。

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