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長崎大水害

 またこの日がやってきた。
 昭和57年の7月23日、長崎地域において未曾有の豪雨災害があった。
 もう42年も前のことになる。当時は高校生で高校敷地内に併設された寮暮らしをしていた。
 この年の梅雨入りは遅かったらしい。今でいう線状降水帯というものがあったのだろう。
 23日の夕方からは放水銃で連打しているような、大粒の雨になっていた。寮の給食センターの脇に積まれている、パン類の搬送コンテナががらがらと倒れてそれが流されるのを茫然と見ていた。
 運悪くその日は金曜日で、翌土曜日は外泊日になっていた。
 それで寮生たちは実家に戻れると期待をして、寮に持ち込んだお菓子類を食べ尽くしながら、消灯時間を待っていた。

 様子が急変したのは23時を超えたころだろうか。
 高校周辺に点在している、下宿生たちが次々と避難をしてきた。ばかりかその地域の高台にある貯水池が決壊の畏れがあるという。
 下流の住民たちが腰まで濁流につかりながら、互いの手を数珠繋ぎにして、流されないようにと急坂を上ってきた。
 俄かに体育館が騒々しくなった。
 進学校ということもあって、そうした備品のストックもない。体操マットを引いて、その上に座って避難してきた方々は夜明けを待っていた。

 当時のことで寮には空調などない。
 ばかりか、夜半には停電になった。
 隠し持っていたラジオを皆で噛り付いて情報をとっていた。モチロン見つかれば没収されて、学期末に保護者共々に叱責されるようなものだ。
「浜の町は水没したらしかぞ」
「眼鏡橋も流されたらしかぞ」
「歩道橋に流されたひとが、ぶら下がっているらしかぞ」
 耳からくる情報が想像で加算されていく。
 その空気には高揚感すらあった。恥ずかしながら想像に至らない若輩たちの群れである。外泊日がどうなるのか、交通機関はどうなっているのを無責任にも話し合っていた。
 然しながら時間経過とともに死者の数が増えていくことには、言葉少なくなっていく。最期は無言になった。

 死者299人。
 捜索は数か月もかかり、その数値に達した。
 様々な風聞も市中に溢れた。
 暫くは泥掃除に明け暮れる週末だった。
 寮生にとっては半月程度の被災体験でもあり、あれから災害の報道を目にするたびに思い出す。
 長らく続く避難生活の方々の、その横顔を垣間見ては胸が痛む。
 この自分の掌は無力なものだと。
 


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