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ザッハーカフェ| あれから10年も

 グラスが宙で絡まって、音を立てた。
 硬質な響きは喧騒の中でも耳に通る。
「おめでとう」
「そうね、長かったわ。もう10年よ」
 彼女の目尻には微細な皺があった。乾燥した空気のせいか、今日は雪の白肌の透明感が薄れている。それでも重たげに瞼を彩る睫毛が金色に輝いていた。
「いやだ、歳をとったな、って思ったでしょう」
「年輪を重ねるっていうんだ、日本ではね」
「そうね、なんだかそう言うと、時間が佳いものに聞こえる。それでも10年よ、あの学生さんがタリアをもう着こなして、ここにいるなんてね」
「おれにomeletteを作っていたお姉さんが、今は国立劇場の舞台に立っている。そんな想像はしたことがなかった」
 その舞台を鑑賞するために作ったスーツだ。
 そっぽを向いて、彼女はまだ端役よと呟いたが、微笑みを抑えつけているのが判る。彼女の翠色の瞳は、当時よりも妖しげな光を湛えている。シャンパングラスのなかからチェリーを引き出して、それを咥えた。
「音楽の都、Wienよ。何だって起こりうるわ」
 給仕係が白いクロスをかけた台を押してくる。台上の、鳥籠のような特殊な什器に、三段になって皿が載せられている。それぞれ前菜、メイン、スープが乗っている。それを手早くテーブルの上に並べていくと、もう大理石の石目が見えない程にいっぱいになった。
 赤紫のベルベットのソファに包まれながら、至福の時を過ごした。
 最後にことりと置かれたのは、この店の名前を冠したザッハートルテと、オレンジキュラソーの入った深煎りの珈琲。
 チョコフォンデュで武装したケーキには杏ジャムが挟まれていて、甘味が強い。そのために口直しに、糖分抜きのホイップが添えられる。だから傍を固めるのは辛口の珈琲に限る。
「・・この店はTOKYOにもあるけど、残念ながらアルコール入りの珈琲もないし、ここまでタルトの主張が強くない」
「まぁ、似て非なるものって。却って辛くない?」
「だからここで再会出来ることを楽しみにしていた」
「それは私に?お皿にだったら、嫉妬しちゃうかも」
 多少の間を作ってしまって、両方ともと答えたが、その逡巡が意味するものを理解していた。
 年齢差は当時のままだが、現在まで歩いた道筋が交差してはいない。
 その起点がプラーター公園の森、そこに立つ観覧車のゴンドラだった。そのワゴンのなかで初めて女性と、大人のKissをした。
 10年越しのふたりの秘密だ。
「そんなに甘くはないようね」
「大人になることは苦くなることだよ、そう父から学んだ」
 気分を断ち切るように、タルトにナイフを入れた。
 ひびが入らないように、慎重に。


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