人魚の涙 31
冷たい海水が沁みていく。
天空には厚い雲があった。
梅雨空なのに南風が吹く。
響は昏い海面に道でも見出しているかのように、沖の方へ歩いている。もうその細い掌が海面についている。指先が水面に触れるたびに夜光虫が、蛍のような輝きを見せる。
「危ないよ、もう出ようよ」
その声を投げかけても、揺れる黒髪は、私の言葉など吸い込んでしまうようだ。響のワンピースが海水を吸って肌に貼りついている。
腰まで浸かると背筋に怖気が駆け抜ける。
予想以上に冷たい。
しかも早い海流は河川のそれのようだ。視界が覚束ないのは恐怖でしかない。
ぱしゃりと海面を叩く音がする。
そこで跳ねた蒼黒い魚影がある。
いや、違う。
《来たよ、お母さんよ》
響がそう思念波で呟く。
顔に水飛沫の粒子が打ちつける。その向こうに半身を浮かせて、《彼女》が泳ぎながら巧みに距離を詰めてくる。
明らかにそれは裸の少女に近い。
母親という年齢を全く感じない。
ぬるりとした光沢のある白肌が目に突き刺さってくる。
小ぶりだが、釣り鐘のような美しい乳房が水滴を弾いている。体温を感じないのに乳首が果実のように紅い。
初めて正面から見た彼女は、異質なほど感情を湛えていない容貌をしている。氷で作られた立像の方が愛嬌があるかもしれない。
黒髪に見えるが、金属質の光沢がある。細い月光のもとでも明らかだ。
そして蒼い瞳孔が大きく、白目がない。深淵の洞窟を覗くような恐怖がある。その奥に呑み込まれそうな錯覚さえある。
そればかりか。
思念波の奔流に押し流されている。
彼女のかつて見たもの、感じたものが津波の膨大な圧力で推してくる。彼女の記憶と私の記憶の閾が崩される。攪拌されてされて、混じり合う。
見覚えのある水着をきた少年が、脳裏で暴れているのを、ただじっと視ている。
その姿は紛れもなく私だ。
波間に巻かれ溺れている。
痙攣さえも弱々しく漂う。
蒼白の手が支えてはいる。
少年の首筋が見えるが。それを煽情的な衝動をもちながら見ている。ああ、それは彼女の感情が反響しているのだ。それはほぼ性欲に近い。
《噛む・・・産む》という意識が流れ込んでくる。
首筋に、かっと熱い痛みがある。
剃刀が深く傷つけた鋭角の痛み。
はっとして掌を当てたが、それはこの瞬間ではない。脳幹の記憶野に沈んでいたものが蘇っただけだ。
服に幾つもの手がかかっている。
水面から幾つもの腕が伸びている。血色もなく白い腕には、静脈が網目のように走っている。
それらが私を海に誘っている。