風花の舞姫 勾玉 11
ふわりと、車体が宙に躍り出る。
後部座席でシートベルトをしていない。
そのためか身体も浮いて、頭をルーフにぶつけそうになる。それが防がれているのは、車内を満たす黒い羽毛のお陰だった。
中空に静止した刹那、車体前方を下げて一気に加速度が襲ってくる。私はルーフに背中を押しつけられて、臓腑が重圧に絞られている。
雪女でも流石にこの高度からの転落では、厳しいかもしれない。
それでは史華自身か、もしくは憑依したそれが差し違える気なのか。いや、違う。彼女には羽衣があるので、ここから充分に飛翔はできるだろう。
やはり運転席側の窓が開いている。
というか破られている。そこから黒い羽毛だけが外にまろび出ようとしている。その羽毛の中から、取り残された史華の血の気の引いた顔が見える。黒砂の中から桜貝が顔を出したかのようで、意識のある姿ではない。
私は運転席と後部座席を仕切るアクリル板に取付きながら、前方に見える樹氷の氷柱を太く網の目に伸ばし切って中天を塞いだ。
前方に幾つもの樹氷の蜘蛛の巣が、積層となって出現している。
がつん、がつんと衝撃があるが、車速が緩んだだけに過ぎない。
ぞろり、と黒い塊が車外に躍り出る。蛹が脱皮していくように。
ばさり、と開かれた羽衣が風を孕み、天空に舞い上がりかけた。
その黒い羽毛の中に朱色の瞳をぎらりとさせ、私を嘲笑ってる。
それでも樹氷の網を展開して、車速を殺そうとするのに忙しい。
なぜなら運転席にはまだ史華の、生気を失った肉体が残ってる。
駆け出しの魍魎の彼女では、転落の衝撃は耐えられないだろう。まだ命の蓄積には足りてはいない。
かなり強い衝撃があった。
木の幹を叩き折ったのだろう。
白い爆風が眼前に迫る。
エアバッグが作動したようだ。さらに後部座席の横からも圧縮された塊が膨らんで来る。視界がまるで奪われてしまう。
ああ。
そう思った瞬間、反動で後ろに飛ばされた。
唇でも切ったのか、鉄の味を噛み締めている。
不可思議な気分だった。荒れ狂う海に揉まれるように、或いは急流の牡丹のように車体が奇妙な踊りを続けている。
程なくして、それが収まると静寂だけが残っていた。
迎えに来たのはやはり甘利助教だった。
それまでは風雪を避けれる車内にいた。エンジンは停止していたが、史華との体温で窓が曇る程度には温かい。砕けた運転席の窓からの隙間は、私が氷で塞いでいる。
いつ頃から待機していたのだろうか、色葉の仕込みだと思うが、彼は少なくとも糸魚川市には居たのだろう。事故現場に夜半には辿り着き、ザイルを使って懸垂降下してきたようだ。その装備を予め想定していたのだろうか。
「大丈夫か。命拾いしたものだ」
「ええ、それよりも色葉は大丈夫なの?また無茶をさせてしまった」
峡谷に群生する北陸杉の大樹に魚網が絡まっている。その先端にはあのタクシーの車体が傷だらけになって半ば宙吊りになっている。オイル臭い液体があちこちから甲虫の体液のように溢れて雪原に滲みを落としていた。
「魚網の引き寄せ転移なんて、色葉はどんな代償を払ったのかしら」
「電話にも出ない。僕は市内のホテルで待機するように言われてた。昨晩からね。講義も休講にしたよ。それと史華はどうしたんだ」
「意識が戻らないの」と言って「それにね」と彼女の胸を揉み上げた。
「おいおい。そっちも趣味の範囲か」
「いえ、見てよ。彼女は年齢を失っているの。もうブラがぶかぶかよ。色葉のお下がりでも使えそうなくらいに」
「見た目は高校生以下だな。数年分は若くなってる」
彼女から、あの黒羽衣が奪い去ったものだろう。
色葉に思念波で語りかけたが、返事は無かった。
夜をかけて信州に戻ることにした。
車体は春先まで発見されることのないほど、念入りに雪で封印した。
後始末はこの場所を記憶しているので、如何様にもできる。
それよりもジムニーを運転する甘利助教に事訳を語る必要がある。狭い後部席で、細くなった史華の肩を抱きながら言葉を継いだ。
往路の列車で異相空間に取り込まれたこと、そこからただの鬼風情に手こずるほど、私の能力が減衰したこと。そしてあの闇の異形さは、勾玉が発したものかもしれないということ。
「それと・・・申し訳ないんだけど」
「珍しくしおらしいね」
「あの勾玉が消えているの」というと彼は絶句してアクセルを踏み込んだ。
「黒い羽毛が充満したのは、私のディパックから抜き去るためだったのね。それに落下させたのは、私の注意力を奪うため。してやられたわ」
タイヤが滑りかけたが、彼はそれでも平静な様子で耳を傾けている。
「それでもあの勾玉には、対となる玉があるそうよ。求厭がそう言っていたわ」
「求厭、求厭と言ったか?」
強い口調で彼はもう一度訊いた。
「ええ、どうかしたの。往きのJRで会った、人間とも魍魎ともつかない奇妙な男だったわ」
「それはな、秀吉の孫の名前だ。秀頼の息子に隠し子がいてな。仏門に出されていて、江戸期の晩年にその素性を明かしている。そう、そいつが本物なら君とは同世代になるな」
成る程。
闇を喰って生きてきた訳だ。