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風花の舞姫 女郎蜘蛛 1

 汚泥の澱が固まったような路地だ。
 僕の靴先でさえ躊躇うような暗渠。
 凡そ相応しくない一凛の花がいた。

 数日前に指導教官のグループLINEに連絡があった。
 歓楽街において、不同意性交を含む暴力事件が多発しているという。勤務している信州大学の学生へ注意喚起と、万が一見聞きした場合は警察への通報を行う旨の通知だった。
 そういえば。
 かの北川史華も先年末に絡まれていた場面を救助したことがあった。あれは大陸出の暴漢だった。確か黄皓とかいったか。
 つらつらと物思いをしつつ踏み込んだのは、小さな悲鳴をあげながら四方を男たちに囲まれて、ヴァンに引きずり込まれていく女性の影を見たからだ。
 もう五月連休も越えたのにコート姿を捨てきれないのは、余程温暖な県から進学してきたのだろう、それでウチの学生だと思った。
 おい、と誰何の声を上げた。

 信州、松本駅から放射状に延びる沿道のうち、歩行者優先の公園通りという繁華街がある。ここは居酒屋やカラオケボックスが居並ぶなか、酔客が宵のうちまで絶えない。
 ただ最近は懸念するべきことがある。
 日本語の看板に、普通話プートンワの簡体字が混じることが増えた。ことに最近、増えたのはベトナム語の文字だ。音節がベトナム語で表記はフランス語の形式になっている。一見はおしゃれに見えるが、交わされている言語が違う。
 多様性という、便利な惹句フレーズは、現実への匕首だと思う。
 薬物が溢れている、窃盗が絶えない、詐欺が横行する、性犯罪が増えた、その現実を覆い隠す虚構の繁栄がある。
 多様性は容認すべしという無言の圧力でもある。
 公園通りは、脇道に外れると薄暗い通りがある。
 異国の言語だけが飛び交う、異空間が存在する。

 そのヴァンが襲ってきた。
 ヘッドライトが蒼く点り、殺到してくる。
 いい踏み出しだ、と単純に笑みが零れる。
 それは脅しに過ぎず、急旋回すると見た。
 殺意の烈風に相対し、躊躇いなく跳んだ。
 その短いボンネットを目掛けてだ。避けるつもりは毛頭ない。むしろ加速してくれて好都合だ。ドライバーには標的が消失したかに見えただろう。
 戸惑う浅黒い顔がフロントグラスの向こうに見えた。

 甲虫の如く潰れろ・・

 おのが過重と加速度と練達の技を込めて、大鉈を頭上から打ち据える勢いで、右踵を叩き込む。狙いはボンネットの左端だ。
 履いているのは、野外作業用の安全靴だ。靴先には鉄板の芯が入っている。たとえその車で踏まようが足指が潰れない。緑十字のタグがその安全性を保障している、野外活動フィールドワークの多い教育者の必需品だ。
 おそらくその一点には2t近い衝撃がかかる。
 数瞬で、車内が白濁した物体で満たされる。
 初撃の打点を足場に身を捻り、今度は左足の裏蹴りで薙ぎ払うようにフロントグラスに叩き込む。一瞬でそれは蜘蛛の巣状に砕け切り、貫通した足裏にぶよぶよした感触がある。
 その感触はエアバッグである。
 初撃で狙ったのはそのセンサーだ。
 石壁にでも激突したのだろう、とセンサーが判断し全エアバッグを作動させる。
 エアバッグが火薬の作動で膨らむ早さは、時速に直すと300㎞/hを超える。小型の手榴弾並みの爆発力だ。そしてドライバーの腰にかかる荷重は800㎏に達する。黒帯になりたての素人の、前蹴りを喰らうようなものだ。
 前席でシートベルトをしていないと顔骨を折ることもあれば、眼鏡が頬肉に潜り込むこともざらだ。無論、ドライバーは悶絶することが多々ある。
 そのためにセンサーは前車軸上のフェンダー内部にある。バンパーの接触程度では開かないように緩衝帯を置いているのだ。無駄に乗員の負傷を増やしては、世間の目が厳しい。
 
 反動で身体が宙に浮く。
 車体の屋根に両手をついて、視界の直下を走り去るのを見送る。体勢を翻して猫のように着地する。間隙を置かずに地を蹴る。
 そしてブレーキの金切声と激しい衝撃音がする。
 ヴァンは路地裏のバーの壁に刺さっている。さらに電柱にもめりこんでいるが、減速していたし乗員のダメージは少ないだろう。驚いた酔客とママが気の毒だ。
 スライドドアの窓を掌底で破る。障子紙でも貫くような容易さだ。いかんな、アドレナリンが全身に回ったらしい。手加減ができなくなっている。
 萎んでゆくサイドバッグの隙間から腕を入れ、自動ロックを潰して引き開ける。
 リアシートから最初に零れ落ちたのは、東南アジア系の風貌の男だ。激突の衝撃で、もう弱っているが、背中から襲われたら面倒くさい。
 顔をひっ掴み、顎関節を優しく外しておいた。
 もう彼に用はないので道端に放り出す。
 なんぞ異国の言葉を撒き散らしながら、外れた顎の苦痛に膝立ちになって呻いている。まあその辺の藪医者でも繋ぐことができるだろう。頑張って煉瓦の角にぶつけたら自力でも何とかなるだろう。
 軽く呼吸を継いだ。
 次に女性の細い身体があった。
 はだけた前を、コートを握りしめて隠している。
「いい勉強になっただろう。異文化交流ってのは」
 怯えさせないように、殊更に穏やかに言った。
 


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