見出し画像

二気筒と眠る 5

 春の嵐のようだ。
 もう二晩も山中で雨に打たれている。
 テントの撤収もできずに耐えている。
 まるで冬眠中の熊になった気がする。
 風除け代りに空冷CBは背後に停めた。
 最初の晩はまだ小雨だったので、山桜の下に設営ができた。その翌朝からは雨足が強くなったので、テントの上にタープを張って生活空間を拡げた。
 その下で煮炊きは何とかできる。
 新陳代謝があるのは、冬眠の熊との相違点。
 よかった。レトルト食品や麺類も買い込んでいて。固形燃料も予備の薪も準備していて。嵐で停滞することも織り込み済みだったようだわ。
 先を急がない旅なので、こんな時期は身体を休める時間だと割り切って。
 最近に発売されたばかりのLEDランタンを下げて、文庫本を読んでいる。
 遠く雷鳴が鳴った。
 そろそろ雨も上がっていいのにな、折畳みチェアで背を伸ばして溜息をつく。荷物をコンパクトにするために背もたれもない、運動会の応援にでもつかうようなソレ。
 おトイレまで遠いことは、問題。
 そのためだけにレインスーツを着るのは癪なので。CBに跨って、近所の道の駅で野菜と肉を買ってきた。ついでに温泉にもつかって、芯から身体を温めた。すぐに雨風に打たれてしまうけれど。
 ここまでくると旅館に逃げ込むことよりも、野宿してあとで武勇伝に加えることが優先だ。ついでにMDプレイヤーの電池も購入できてよかった。
 
 明け方になると虫の音が満ちてきた。
 雨音の向こうに生き物の気配がする。
 そして鳥の声が頭上に喧しくなった。
 私は寝袋の中から首を伸ばして、ランタンの灯で腕時計を見つめた。もうすぐ太陽が昇る時間帯だ。妙に頭も冴えたし、ジッパーを引いて外を窺った。
 幻のような燐光がすぐそこにあって。
 葉擦れの音を立てて消えてしまった。
 野兎の瞳だったよな、そう思ってハンドライトを探した。無作法だけど叢で小用だけは足しておこう。この林に寝泊まっているのは私だけだし。
 雨が明らかに細くなって、霧になってきた。
 今日は出発できるかも、期待が胸を鳴らす。
 深煎り豆をセットして、バーナーで温めたお湯でペーパードリップをする。とっておきの林檎を出して、それを朝食として祝った。
 まだ濡れているけどテントを収納する。
 空冷のエンジンも冷え切ってしまった。
 読んでいた文庫の内容も脳裏にはない。
 周囲が明るくなると、山桜の花弁がすっかり開いているのに気づいた。
 おはよう、春めいてきたね。
 貴女も綺麗ね、さようなら。
 
 
 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?