舞桜
桜が散っている。
私のロードスターは、高台のパーキングに停まっている。
ふたり乗りのちっぽけなロードスター。
オレンジに塗られたボディに、漆黒の布製の幌が掛かっている。
急勾配の傾斜の途中に、巨人が指でつまんでこしらえたような平地が、虚空に向かって突き出している。そのパーキングのへりに平たく張りついている。
仕事がかさんでいる時期には、帰宅が深夜になることも、ままある。
エンジンの鼓動が止まり、車外に出ると、眼下には夜景が広がる。星が吹き散らされたような眺めだ。そのひとつひとつが人家の温もりをたたえて瞬いている。
スプリングコートのなかで、スマホが唸った。
着信音で相手が誰だかわかったので、そのままメロディを聴いていた。
お生憎さま、冷めた料理を温めなおすなんて、わたしはそれほど優しくはできていないわ。胸のなかでその言葉をメロディに乗せていた。
根気が尽きたみたいに、ふいにメロディがとぎれた。
ほら。
あなたは頑張りが足りない。
ふたりで会うときは、なぜか雨の日が多かった。
春めいた雨脚に追い立てられるように幌のなかに隠れても、車内には傘の置き場すらなくて、ふたりで笑い合った。運悪く助手席には、仲良く2本の傘が並ぶ。だから彼の右足だけが湿っていた。
幌を雨滴が叩く。ぽつ、ぽつ、ぽつ。いつまでも雨の音だけが耳に残る。
「ずっと傘をさしているみたいだね」
「ええ。幌を触ってみて。雨が落ちてくるのがわかるから」
手のひらに広がる雨の重み。
その重ささえ幸せに思えた。
桜の花びらがそこに触れても、わたしはその感触がわかるだろうか。
明日は桜の木の下に停めてみよう。
はらはらと儚げに舞い落ちる花びら。眼を閉じて、幌の内側に指を這わせて、息を凝らしてじっと待つのだ。
次の幸せが訪れる瞬間を探るみたいに。