ブリュッセルワッフル 3
煉瓦壁の窓にスライド式窓がある。
窓辺のガラス瓶に花が活けてある。
ブルーベルという紫色の花を水栽培しているらしい。
この国の人々はレースカーテンを引いたりはしない。
窓枠を絵画の縁に見立てて、きちんと整頓した室内を展覧するのがマナーのようだ。しかもこの小一時間は窓辺に妖艶な肌が色を添えている。3階まで届く梯子があればだけど。
「私もね、Antwerpenのacademyに通っていたの。でも進級できなかったの。それで働くことにしたのよ」
この国のmodeにかける情熱はひとしおだ。
衣服のためにガレノスの解剖学まで学び、布地のためにプリニウスの博物史まで追求する。古代ギリシアの単語に溢れたレポートも、手のかかる課題も毎週のように出る。そんな負荷の割に、学費は安いし入試の敷居も高くない。ただし卒業するには不断の努力が必要で、1年次では半数が中退した。
「それでもね、ヤップと出逢えたのだから。働くというのは尊いわ」
「ヤップって婚約者?」
「ええ、ハーグの法律事務所で働いているわ」
つまりは生まれ故郷であるこの地を、オランダ式のアクセントで発音するのはそういう事かと思った。
「このデッサンだけど、写真の方がよかったんじゃないの」
「写真は恥ずかしいわ。レンズは外っ面をそのままに残すから。貴方の眼は私の内面まで見ているでしょう。体温のある線を残せるでしょう。そんな血の通った姿を残したいのよ」
デッサンが終わると、Lisaは衣服という文明社会に復帰した。
「ワッフルを温めてくるわね、珈琲も淹れなおすわ」
リエージュ式のそれは日本で一般的なタイプで、屋台で買ってつまみ食いする事が多い。それから彼女の身の上話を聞いた。
ドレスは亡き母が、結婚式に着たものだという。古びてはいたがレースも自ら補修して、丁寧に洗浄して陰干ししてあるという。
見せてもらうと、首筋から潔くデコルテラインを出したビスチェはオーガンジー生地だが、その表を彩るリジッドレースは手縫いらしい。手間と技巧で紡いだ一着だと思う。緻密な下地に、ひと針ひと針刺していった先人の丁寧さに見惚れてしまう。そしてドレスに入れた彼女の針仕事も。
それを見たときに彼女の式を手伝いたいという衝動が起きてしまった。
「このdressing、僕にやらせてくれないか」と言葉が洩れた。
「本当?やって貰えるの」
「ああ、感謝祭を見てから帰国する予定だったけど。加えて留学最期の想い出にしたい」
それが彼女の、一番の望みだったらしい。
academyの課題よりも多忙になった。
Lisaを採寸してみたが、母親と骨格が近いのだろう。
多少の手直しで綺麗なラインがでるはずだ。スカートを彩るトレーンは、課題で作った習作を調整すればいけると思う。
「式の段取りは?」
「両親と同じ教会で、それからドレスのまま市庁舎で婚姻届けを出しにいくの。リムジンでよ!そう、リムジンなの」
日本のように式場で披露宴などはないのだろう。
ならばトレーンも短め、足元もすっきりしないと。花嫁が転倒するような不首尾は興ざめだと着想が湧く。
週末まではかかりきりだな、と思った。
式はつつがなく終了したようだ。
可愛いベルガールが鈴を振りながら、教会の扉を開く。
そこに新郎新婦が現れて歓声が湧いた。その背後からは、親族が大輪の笑顔で居並んでいる。
扉前には新郎新婦の友人たちが詰めかけていた。新調したDRIESのスーツもここでお披露目になる、服にとっても幸せなことだ。
交わされる祝福の言葉、左右からの抱擁とkissが僕にまで回ってくる。
交差する老若男女は数か国の言語で、「今度は何か食べに行こう」と誘ってくる。
そうベルギーにおいてはラテン気質の方が多い。食事は皆で出かけてシェアする風習になっているし、ホームパーティも多い。オランダでは逆で、外食は年に数回程度。誕生日か結婚記念日という相場だ。務めて慎ましく倹約が美徳となっている。
料理はどちらも大皿で給仕されることが多い、
ベルギーでは大人数で楽しむためで、オランダでは貴重な日を祝うためで、もちろん前者の方が味はいい。
新郎であるヤップは背の高い男で、相貌がごつごつしている。額が広く突き出ているので帽子が似合うだろう。見るからにゲルマン気質だ。
そう。
新居は彼の住むオランダのハーグになるという。ますます言葉も自然と染まっていくのだろうと思った。
Lisaはスカートを親指で摘まみ、参列者にお辞儀をした。
その前にリムジンが滑り込んでくる。
フラッシュの光が左右で瞬いた。そのときに左肩がぐっと掴まれた。
みると萎れた顔の父親が、窮屈そうな正装で会釈をした。彼の服も調整したのではあるが、それでもスーツの前が張りつめている。
「見ろよ、白百合が歩くようじゃないか。ありがとう、日本人。娘を飾ってくれて」
ああ、今夜からは彼も独りになるのか、と思った。
「まだ帰国はしないんだろ。明日の夕食は奢らせて欲しい。それだけはお願いだ」
初対面の印象とは落差のある声音で、小さく言った。