餓 王 鋳金蟲篇 2-5
天の大河が瞬いていた。
薄い大気が澄み、烈風が身を斬るように冷たい。
私は袈裟を二重に纏い、寒風から化身の身を護っていた。この身体にはランカの術により、蛇のシャリーラが混じっている。
そのために長命であり、蛇の視覚と嗅覚を得ている。さらには肉体の欠損があっても、程度により再生する能力がある。
しかし冬眠という、蛇の体質を恐れねばならない。
発動は気温低下なのか、数年毎なのかも判らない。
だが寒冷地を遠巻きに避け、遍歴行を続けてきた。
初めて冬眠したときは、全身被爆と火傷と腕を欠損していたが、それが全て治癒して目覚めた。その時は恐らく数年もの眠りだったと思う。
大怪我さえ冬眠発動の要因かも知れぬ。
ただ体温を喪失すると、俊敏さに欠く。
外敵に備えている旅では鬼門であろう。
老人の瞳を覆う感情が、恐怖であった。
口角が小刻みに震えて、自由にならぬ痩躯で後ろに這う。裸尻を擦りながらが精一杯の様子だ。唇を震わせて意味の乗らない叫びを絞り出している。
それをカリシュマが右手を上げて、安心させようとしている。
私は膝立ちのままで前に進んだ。
彼の恐怖を増進させてはならぬ。
この場所にルウ・バが闖入してくれば厄介だ。あの筋骨の厚み、偉丈夫を見るだけで老人は卒倒するであろう。
幸いにも彼は焚火の傍で暖を取っていた。
半身を起こして視線を飛ばしたが、手で制してそこにいるように伝えた。
「畏れることはない。儂たちだけだ」
聖職者であることを浄化の印を切ることで伝えた。
「そう、温めていただけよ」
カリシュマは肌に一糸もつけてはおらぬ。
敵意のない事を体現している少女の姿だ。
彼の骨ばった尻が巨石に当り、留まった。
「安堵なされ。白湯が所望であれば、用意する」
言葉を継ぐでもなくカリシュマが湯を取りに立った。そのため彼女の羊毛織の上衣を手渡した。走りながらそれを身に巻き付けていく。
「儂は遍歴の聖職者であるが、鬼が出るという噂をききつけてな。調伏せしめようとて、この地に野営している。そのような鬼や獣を見かけたことはないか。見た所、余程の化生の者を見たように感ずる」
ようやく老人は深い溜息をつき、目に意思が点った。
ダヴというのが老人の名前という。
意外にも文字を識り、ヴェーダの詠唱もできた。
イ・ソフタに向かう街道の宿場町で商いをしているという。それで言葉に妙な訛りがある。数か国語を操れるようだ。
ダヴが語るには、宿場町が屍人の群れに襲われたのだという。
あれはな。
ふいにやってきたんざ。
そおな、あれの来た方角には葬場があってな。其方さまもご存じであろうざ。この場所は鳥葬の習わしがある。切り立った崖に石室を置いて、そこに遺体を安置してヴェーダで浄化するんざ。
奇矯なこととお思いざろう。
儂らは、食べ物に鳥の羽根風がかかることを不浄だと忌み嫌う。なのに死者を弔うのに鳥の嘴を頼るのだ。
或いは妬心なのかもしれん。
鳥は天に最も近い場所へと往ける。
儂らはこの痩せた山脈の僅かばかりの糧を得て、交易でようやく酒を得て喉を潤すことしかできぬ。
或いは鬱屈なのかもしれん。
この地では厳冬期ともなれば、飲み水すら氷を溶かして得るしかない。薪にできるような枝を湛えた大樹もない。まして墓穴を掘ろうとて青銅の鍬でも凍土に傷ひとつも与えられぬ。
鳥に導いて貰うしか余地がないのだ。
ダヴの眼はカリシュマに留まった。
赤錆色のチュニックを纏い、ちょこんと膝を並べて岩に腰かけている。その彼女にダヴは頽れた。額を土に擦りつけ、最大限の礼を行った。
「この貴女は儂の恩人でございます。儂の孫娘にも届かぬ年頃でございましょう。それでもかの慈母の如き振舞い、この身を賭して後世を尽くしたいと考えますれば」
小石が転がってきた。
大地を踏みしめる沓の音がする。
「そりゃあな、この娘にとっては同胞だろうからよ」
驚いたダヴは腰を浮かせた。
それまでルウ・バという男を認知していなかったのだろう。
痩身に見えて、隆々とした筋骨がその肉体を鎧っている。しかも冬装備のため余計に両肩が盛り上がっている。
さらに銀髪が風に揺れて輝いている。