長崎異聞 7
醍醐の尻の座りが悪い。
元来が椅子には馴染めない。
けだしこのような調度に不釣り合いな二本差しである。
店の名はLe Ange という。何度も聞き直しても聞き取れぬ。音階を合わせることができぬ。そこはユーリアが助け舟を出して、安堵という声音を尻窄みで発音することにした。
その店は長崎奉行所のある長坂から、隣の辻を僅かばかり降りた場所にある。二階に上がれば港まで見える猫の額のような平地に立つ洋館だった。
caféという様式の店らしい。
仏蘭西の菓子を売りながら、二階では紅茶や珈琲を出している。紅茶であればまだ我慢も効くが、珈琲は頂けない。増して客人は葉巻というものを嗜む。鼻が曲がってしまうぞと醍醐は憤る。が、不満を噛み潰してそこに居る。
ユーリアは菓子店の売り子ではなかった。
「私は通詞なのよ」と人懐っこく笑った。
店はここが将軍のおわす国とは思えぬほど、異国人が通ってくる。南山手の貿易商、武器商が屯している。その母国も数カ国に渡る。仏蘭西はもとより獨逸、和蘭、英吉利、それに亜米利加と目紛しい。
「私は出身が瑞西なので五カ国語は操れるわ」
こともなげに彼女は言う。
昨日、陸奥邸を辞してから長崎奉行所に戻った。
まずは探索方に赴き、かの不逞な防府崩れの人相書について報告をする。一番の腕利きが探索に出ると心得たところに、上役から呼び出しがかかる。
上役は近目の背の低い男である。
髪を刈り込み、洋服を纏っているが袖に腕が寸足らずであり、高級な丸眼鏡をかけていて、やはり陰口では眼鏡小僧と揶揄されている。
「ご苦労」と慇懃無礼な口をきく。
「辞令が出ておる。醍醐君は本日より警固方になる。陸奥邸が任地である。要人警固じゃ。良い勤めを賜ったな」
驚くことの多い一日だ。
要は厄介払いである。今や奉行所でも武芸より学歴が物を言う。この眼鏡小僧も中学出の役人であり士分ではない。尋常小学をやっとの武辺者である醍醐は、役場では常に持て余されている。
「・・なお宿舎も同地に用意されている。詰め所長屋を引き払い、荷物を運ぶように。手が足りなければ大部屋の手空きを使うといい。彼らに支払う給金は準備してある」
成る程、陸奥宗光という御仁は要人らしい。
かの御仁の言葉を醍醐は反芻している。
「君はご存知か、五年前の長崎騒乱を。私はそれを畏れている。いや臆しているのではないぞ。今の日本では清国に勝てぬ。それにな、来春にはまた清国より鎮遠、定遠が長崎港に再訪する。それまでにやらねばならぬ施策があるのよ」
噂には聞いている。
五年前に清国より二隻の巨大戦艦が入港してきた。その節に戦艦の武威を翳した水兵共が、丸山遊郭で婦女子を強姦したり警察官を撲殺したりの騒乱に発展した。無論、穏やかには治るはずもなし。武辺者が殺到して斬り結び、数人の水兵を落命せしめた。
それが今晩なら醍醐も駆けつける武者の一角に居ろう。
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