COLD BREW 19 再稿
左手の薬指がない。
つまりライディング中は、クラッチ操作に工夫が必要ということだ。
バンクする車体を保持するためにグリップを握り締めながら、クラッチを引くのは人差し指一本の役割にしている。握力を鍛えてそれを補った。しかしながらそのまま街中を縫いながら長距離を走ると、流石に疲れは出る。
連休を控えていたが、数日の休養を兼ねて旅に出ていた。
自営業は自らを職場の虜囚にしてしまいがちだ。
根っからの風来坊なので、時に息抜きが必要だ。
旅程をそれでも二泊に留めているのは、理性だ。
福島へは通い詰めの時期があった
当時の僕は災害支援ライダーを生業にしていた。
純粋なボランティアで、生活必需品や医薬品を運ぶライダーも大勢いたが、僕は高額のギャラが目的だった。
高速道路は驚くべき早さで復旧されたが、インターを降りるとそこは一変したコンクリ破片と泥濘と残骸の世界になっていた。
天国と地獄のような落差がある。
現地の悲惨さは言語化できない。
主要な幹線道路も寸断され、破砕された粗塵が地面に突き立った場所を抜けていく。地図は当てにできない。
初期の頃は遺体発見場所に、布切れや紐などが結んであるのを見た。
幸いにも遺体を直視したことはない。それでも風に死臭らしきものが澱んでいる荒地を通ったことは幾度となくある。
長らくオフ車に乗り慣れていた腕が、その時には重宝されていた。
特別なギャラの内訳はこうだ。
被災地前線から、マスコミが取材した写真や原稿データのSDカードを運ぶ。そこでは携帯電波も圏外であることが多い。
通信インフラがあちこちで不通になっていて、原稿のデータ送信は出来ない。数社と契約をして法定速度などは無視して運んでいた。
そうしたデータを運び都内に納品しては、次は製薬会社からの依頼で医薬品などをカーゴに積んでまた被災地へと走っていく。その帰路に関してはボランティアで、社会への貢献ができた満足感があった。
しかも食料や飲料水及び自身の医薬品は自腹であり、ガソリンの予備缶も携行していかないと航続距離は不安でもある。しかも記者によっては原発線量の高いエリアで取材している者がいる。そこにデータを受け取りに行くときは危険手当を貰っていた。
不思議な体験がある。
受け取りデポの場所が変更になり、野営することになった。
小規模な余震があるのが恐怖で、高台の草地の残る場所を探す。それでも瓦礫を払う必要があった。
夜更けになって小さな焚火台で軽食を摂っていると、遠くからエンジン音が響いてきた。遮蔽物が一切押し流された平原が眼下にあり、かなりの距離でもそれが届く。
新車から使い古したようなハンターカブに、大きなコンテナを積んだ中年男が闇から浮かんできた。
「・・お晩です、寒みぐなったね」
人懐っこい笑顔で軽く一礼をしてきた。
「どうです、珈琲でも」とドリップセットに熱湯を注いだ。
彼のバイクの挙動からここに来ることが判っていた。この時期だから同業者が人寂しさに訪問してくるのだろうと思っていた。
「変なものみだ。白い人影が歩ってで。気がづぐど町も元通りになってる。そう昔のまんまで。おっかなぐなって道迷ってだら。人明がりが見えで。恐る恐るこごまで来だのよ」
訛りがきつかったが、標準語の発声に近づけているのが判った。
「それは肝が冷えましたね」と笑って瓦礫を積んだ席を勧めた。この明かりも鬼火のように見えたという。
彼は日用品デポに集積された薬品を、それぞれの仮設住宅や被災キャンプに届けているという。四角い顎の胡麻塩髭を撫でるのが癖のようだ。
暫くは楽しく談笑していた気分だった。
人寂しく、心細いのはこちらも同様だ。
ぱちん、と焚火台で薪が爆ぜた。
ふと気がつくと、誰もいない野営地だった。
乾杯をするかのようにカップをひとりで持ち上げていた。
常磐道の平日は空いている。
以前は被災地派遣の自衛隊車両やトラックが、猛然と土埃を蹴立てて並んで走っていた。全く様変わりしたものだと思った。
防波堤の役目を果たす、一段と高く道路が真新しく敷設されている。
あの露営地がどこにあったのかも分からない。
記憶は幻かもしれない。
富岡に入ると真新しい建築物が点々と居並ぶが、海沿いは更地が殆どの状態だった。綺麗に区画整理されているが、かつての賑やかな市街地は想起できない。春を迎えて雑草が若々しく無秩序に繁茂している。それが海風を受けて靡いている。
震災後の傷は未だに癒えてはいない。
流石にいわき駅前のビジネスの一室を予約していた。
今の愛車はシングルシートで、まるで積載力がない。
この小旅行でずっと自分に問うていた。
エンジン音の慟哭を聴きながらの旅路は、自身と向き合うことでもある。
店を開く直前の5年前。
祐華と再会したあの日。
なぜ突然に彼女は現れたのか。
なぜ今回と同じように不意に姿を消したのか。
傷は未だに癒えていない。