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Om Saraswatyai Namaha 人生の棚卸し(2)音楽その2

沖縄での暮らしもそうでしたが、背負うものもなかったので気軽に好きな場所に移動しながら、移動先で働いては暮らしていました。

キャンプ場や、単なる公園で、もしくは砂浜の潅木の陰で、テント暮らしをしたり、北海道や沖縄の製糖工場のような、寮と食事つきの仕事をしてまとまった金額が入ったら数ヶ月間アジア各国を旅行したりしました。

主に、当時付き合っていた男の子と行動を共にしていたのですが、彼との付き合いにおいてわたしはわたしなりに誠実だったのですが、その彼は三線の人間関係に疑心暗鬼になって嫉妬していたので、
ある日わたしは、毎日練習して大好きだった三味線を、いい人に拾われて、と祈りつつ、猫を捨てるように道においてきました。

あれはわたしが道端でバイクから放り出されて、一人で20キロくらい歩いて帰る途中のことだったと思います。

わたしは変に根性があるのでそういうことをされてもへこたれたりせずにへっちゃらで、むしろ長距離を歩いているうちに気持ちが研ぎ澄まされてハイになる方です。

そんなに疑わしいなら、そんなに自信が無いなら、わたしが彼に誠実に対応しているということをわからせるためにはわたしの大事にしているものを手放すのが間違い無いかと思って、三線を手放しました。
とても大事な三線でした。
彼はわたしが三線を大事にしていたことは知っていたし、わたしが練習している姿がかっこいいと言っていました。

毎日嫉妬してわたしを責めていたくせに、わたしが三線を道端に置いてきたというと彼は驚いて、慌てて探しに行ったかもしれません。

どうなったのかは忘れました。

彼自身も単に自分の精神が弱いだけで、わたしが嘘をついたりしているわけではなかったことをわかっていたのかもしれません。


そんなわけで、好きだった三線は手放しました。


ただ、三線を失ってその件で責められることはなくなったかもしれませんが、彼がわたしを責める口実は他にいくらでもありました。

最終的には見切りをつけてその彼からも逃げ、
自尊心が彼から踏みにじられ、また自らもある意味意図的に踏みにじって地に落ちた状態になっていたわたしはゼロから、ではなく
PTSDの残るマイナスから、自分の内面に取り組む日々でした。

しっちゃかめっちゃかになった自分の存在形態を一度更地にして少しずつ組み立て直そうとしていたそのころ、わたしの両親は非の打ち所の無い最高の両親で、自分自身も最高だと満足していたのが、

あれ?わたしって・・・アダルトチャイルド!?

と、突然世界がひっくり返る経験をし、
今まで気にも留めていなかったいろんなことが勝手に次々と腑に落ちてきて泣きました。

そんなわけで、いわゆる最低最悪な暴力彼氏の責めから逃げた後に、今度は自分自身の中からくる逃げ場の無い苦しみに襲われて、それに四六時中焼かれるような日々でした。

そちらが本当の苦しみの始まりでした。

それはわたしの子供時代の純粋性は失われてしまっていて、もう戻らないのだという悲しみと、今までのあり方が通用せず、突然裸で世界に放り出されたような、自分だけ自分を守るものを持たないことへの混乱でした。

同時に霊的な感覚においても自分で自分が守れず、様々な霊的経験に翻弄されていました。



そんな暮らしの中での懐かしく安らげる場所、
歌うことがそれでした。

当時はしばらく誰にも連絡先を告げず、身を隠して岐阜で働いていたのですが、
自分でも意味のわからない内面の焦燥に焼かれ続けていたわたしは一人でじっとしているのがいたたまれず、よく自転車で街をうろうろしていました。

そんなとき、声楽を教えますという張り紙を見て、個人宅へレッスンを受けに行くことにしました。

単に、自分の中に安らげる瞬間が欲しいという気持ちでした。


シャンソンも教えていたその先生と相談して、イタリア歌曲の中の「ガンジス川に日は昇る」を練習することにしました。

何度か練習して昔の感覚を少し取り戻し、その先生にも「いいじゃない」とか言われ、「そりゃそうだ」と傲慢にも思いながら、なごみました。

結局岐阜のそこではその1曲だけを練習して歌いました。


(つづく)


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さわ
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