ありふれた愛の話
夫と、8億年ぶりにセックスをした。
なんの前触れもなく無言で始まり無言で終わったので夢かと思って硬直してしまった。
次の日もお互いそれについて語ったりしなかったので、やっぱり夢だったのかなと思ってすっかり忘れていたら、なんとわたしは妊娠した。
身に覚えがないのに妊娠した人みたいな気分だった。
本当にコウノトリっていたのかしら?とかちょっとだけメルヘンなことも思った。いや、身に覚えはあるのだけれど。
訳がわからないうちに妊婦になったわたしは、訳がわからないけどつわりが来て、訳がわからないけどお腹がだんだん大きくなってきて健診の度に先生や助産師さんから「お母さん」と呼ばれる。
いままでに子供が欲しいと何度も思った。
正確には本当に欲しいかどうかはよく分からなかったけど、わたしは夫とセックスゼロな結婚生活を送っていたので、年齢を重ねるにつれ焦ったり、今更なんて切り出せばいいのか悩んだり、周りが3人目を産んだとか聞くたびに心がどんよりして、何でもいいからみんなが持っていて幸せだって言うんだから子供が欲しい。と思う呪いにかかった。
反面、子供は嫌いじゃないけど2人だけの生活も気に入っているし、大人同士でしか楽しめない食事や買い物や旅行なんかももっとたくさん楽しみたいし、ひとりでふらっと飲みに行く日も大好きだからこの時間がもう少し続いても良いな。とも思っていた。
でも取り返しがつかない事になりそうでいつも心のどこかで不安だった。
わたしが歳を取って、もう絶対子供を産めない身体になったとき、あの時なんで夫とたくさん話し合わなかったんだろうとか揃って病院に行ってみればよかったとか、周りの友達が孫の話をしている時にわたしはどんな顔をしてるんだろうとか考えるだけで涙が出てきて止まらなかった。
結婚して6年、わたし達の間にセックスはなかったし付き合っている時もほぼそういうことはなかった。親友とルームシェアをしている感覚にでも近いのだろうか。
夫といると、誰といる時よりもわたしはリラックスできるし、一緒に出かけるといつもたくさん発見があったし、物知りだけど偉ぶらない夫のことをわたしはとても尊敬して愛している。
2人の間になんの責任もない生活を続けるのは少し寂しい気もするがとても気楽だ。
大人が2人過ごせるスペースがあれば何も困らないし、お酒を片手にお互いの好きなものを映画を観ながらゆっくり作って食べたり、夜眠れないからと散歩に出掛けてビールとアイスを交換しあったり、記念日に少し良いレストランへ行ってワインをしこたま飲んで、楽しくなっておんぶをしてもらって帰ったり、星が綺麗だからと思い立って車中泊をしたり、あの山へ登ってみない?と急に目の前の山へ登りに行ってみたり。2人だけのそういう楽しみは、もし子供がいたらできなかっただろうなといつも思っていた。
本当に子供が欲しいと切実に思った時には、ふたりで病院に行って、「タイミング」とか「お薬」とか「カウンセリング」とかそういうややこしいことをやっていくんだろうな。長い道のりになるのかしら。とぼんやり思っていたので婦人科の先生に「おめでとう。妊娠してますよ。」とサラリと言われて眩暈がした。
なんだか本当に訳がわからなくて、嬉しいという感情がすぐに出てこなかった。
エコーを見るとパクパクと勾玉みたいな小さな塊が鼓動を打っている。
なんだか怖くて、妊娠したと誰にも言えなかった。
ぬか喜びするとこの勾玉は急に動かなくなってしまうんじゃないかと不安になった。
幼い頃から【普通の家族】をやったことがないわたしが【普通のお母さん】として子供を可愛がって育てていくことができるのだろうか。
当たり前だけど、お母さんとしての生活が始まったら、やっぱりお母さんになるのは向いてなかったから、明日で辞めて転職します。なんてことはできない。
子供がいるということは2人の強い絆になるけれど きっと呪いにもなり得る。
夫と2人の方がずっと気楽だったと願っても子供はどんどん成長するだろう。
しばらくは宇宙語しか喋れない我が子との暮らしはどんなだろうかと想像する。
ほにゃほにゃに柔らかくて、可愛くて、愛しくて仕方がなくて、見ているだけで嬉しくて涙が出たり幸せな気分になったりするのだろうか。
わたしのぽんぽこりんになっていくお腹を見て夫はいつもニコニコしている。
彼はお父さんになる事が不安になったりしないのだろうか。
わたしや周りから子供ができない事についてもうあれこれ言われることは無くなったので、ホッとしてスッキリした気持ちでいるのかもしれない。
健診のたび、助産師さんはおせっかいなくらいにわたしの家族構成や生い立ちなど色んなことを根掘り葉掘り聞いてくるので、思い出したくないことも思い出してしまう。
わたしがはぐらかそうと頻繁に「忘れちゃった。」などというので訝しそうな目でこちらを見たあとカルテに何か書き込んでいた。
どんなお母さんになりたい?と聞かれたので「 普通 のお母さんです。」と応える。
なんだかあなたは母親失格ですとでも言われているような気持ちになった。
気分が優れず部屋でソファに座ってめそめそしていると、夫が「元気の出るお薬だよ」と口元までチョコレートを持ってきて、頭をくしゃっと撫でてくれた。
夫が「疲れたな」と口にした時にわたしが夫に対して行うそれと全く同じやり方でわたしを励ましてくれる。
わたしがなぜ泣いているかには特に興味はなさそうだ。
そういうこともあるよねという顔をしている。
この人は本当にたくさん清潔な愛情をもらって育ってきた人なんだ。
だから人に真っ直ぐ愛をあげられるんだろう。
こんなにいつも愛されたいとばかり願っているわたしが、自分の子供をしっかりと愛してあげられるのだろうか。
世の中のお母さんはみんなそんな覚悟を決めて子供を産んでいるんだろうか。
お腹の中の勾玉はいつのまにかしっかり人間の型になって、最近ではよく動き回っているのを感じる。
お腹を撫でながら歌を歌うとポンッと合いの手を入れてくれることもある。
可愛い坊や。
わたしは今、自分がどんな気持ちでいれば良いのかわからない。
でも元気でごにょごにょと動いているのを感じると素直に嬉しいと思うよ。
お腹の中が寒かったり苦しかったり狭かったりしないで、なるべく心地よいところだったら良いねと思っている。
小さな坊やに早く会いたいと思ったり、お母さんになる覚悟が決まるまでもう少しだけお腹の中で待っていてくれないかしらと考えたりもする。
小さな可愛いわたしの坊やが自我を持ち、やがて乳を飲まなくなり、宇宙語から人間語を話すようになって、ひとりの人間として向き合わなくてはいけなくなった時にわたしは彼にちゃんと愛とか教育とかを与えていくことができるのだろうか。
当たり前に愛をもらって生きてきた人たちは、自分がされてきたことを自分の子供に当たり前に還元してあげられるだろう。
愛されて育った人特有の自信。人の目をまっすぐ見て笑いかけることができる人たち。
愛されてきた自分にきちんと自信があるからこそ人に甘えることが上手く、無理なく他人に優しくできて、人を妬んだりしない目をしている。
お父さんを尊敬している とか お母さんと仲がいい と屈託なく当たり前に会話に出すことができるあの人たちにわたしもずっとなりたかった。
窓を開けると、近所の子供がもう夜中だというのに泣いたり喚いたり叫んだりしている。
そんなことをしても見捨てないで 抱きしめて、それでも愛してくれる人がいるなら、わたしだって今すぐ意味もなく泣いたり喚いたり叫んだりしたいよ。とぼんやりと思った。
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