【『逃げ上手の若君』全力応援!】(106)古典『太平記』に見る「多々良浜の戦い」のわけのわからなさ…「尊氏の力」に屈しない人・屈してしまう人
『逃げ上手の若君』の連載が始まった時からずっと、いずれこの時がくるとは覚悟していましたが、100話を超え、史実では登場しない、あるいは史実をもとにより魅力を増した様々な登場人物のひとりひとりに対し、相当な感情移入しながら読んでいる自分に改めて気づかされました。……とはいえ、ラストを目にするたびに涙が止まらないのは、この第106話が初めてかもしれません(この先持たないよ!)。
「父子」というタイトルも深すぎて、その意味をちゃんと取れてるか自信がないのですが、今回も調べたこと、考えたことを順に見ていきたいと思います。
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「大漁大漁一万騎は降参したか 流石は尊氏殿の御人徳よ」
佐々木道誉のセリフは相当に皮肉ですね。しかし、このシチュエーション、古典『太平記』で覚えがあります。九州・多々良浜での菊池武敏との戦いです。
私は菊池一族がとても好きなのですが、『太平記』の中でもフィジカルな面もスピリットの面も、いずれも物語中ではトップクラスの強さを誇る一族であろうという印象を抱いています。ところが、大軍を率いた菊池一族の将・菊池武敏が、京都から落ち延びてきた足利尊氏のわずかの兵に惨敗しているのです。ーー『太平記』が語るこのほかの菊池一族の戦いは、たとえ少数でも菊池軍の強さに適わないことが強調されるほどなのですが、尊氏が出たこの戦いだけが唯一、ありえないような展開で菊池軍が惨敗しています。
まず、『逃げ上手の若君』が始まるずっと前に手に入れた『ビジュアル日本の名将100傑』という本から、多々良浜の戦いの経緯について書かれた部分を引用してみたいと思います。
建武3年(1336)2月、葦屋津(現・福岡県芦屋町)に上陸した尊氏に味方したのは、少弐氏(少弐景資の子孫)だけだった。尊氏軍は500、少弐軍と合わせても、2千しか手勢がいなかったのである。対して天皇側は、菊池武敏(菊池武光の兄)が尊氏の討伐に出陣する。武敏率いる菊池軍は阿蘇氏をはじめ九州の諸武士団を糾合し、戦力は2万に達した。ーー中略ーー
同年3月。多々良浜付近で、尊氏軍は北側に、菊池軍は南側に布陣し、いよいよ激突を迎える。ところがこの合戦の直前、突如猛烈な北風が吹き荒れ、多々良浜の砂を巻き上げて菊池軍に激しく叩きつけた。菊池軍は凄まじい砂嵐に視界をさえぎられ、矢を放つこともできない。逆に尊氏軍は追い風を利用して猛射撃を行い、戦いを有利に運んでいく。
かつて日本を救った〝神風〟。今再び吹き荒れた〝神風〟は、劣勢下の尊氏を救う結果となったのだ。さらに状況は尊氏有利に進む。尊氏軍の猛攻撃の前に、菊池軍の武士たちが続々離脱し、尊氏軍に寝返っていったのである。武士たちから絶大な支持を受ける尊氏だが、その信望は九州においても変わらぬものであった。
※少弐氏…鎌倉時代の御家人。源平の争乱後源頼朝に従い、太宰少弐・鎮西奉行に任ぜられ、筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の守護を兼ね、北九州に勢力をふるった。少弐景資は、元寇で九州の御家人を指揮し、自身も奮戦して戦功をあげている。
※菊池武光…征西将軍懐良(かねよし)親王を肥後に迎えて以来、九州南朝軍の中心として各地で歴戦し、少弐氏を破って大宰府に入城した。
『ビジュアル日本の名将100傑』に掲載されている、〝神風〟(戦いの前に尊氏が先勝を祈願した宗像大社の御加護によるもの)で尊氏が勝利したという説明は、『梅松論』という歴史書に残された記録に拠ったものです。しかしながら、これでも納得できない感は否めないのに、『太平記』の多々良浜の戦いはもっとわけがわかりません。
菊池軍と多々良浜で対峙した当初の尊氏は、「敵は四、五万もあるらんと見えて」(実際の兵力の倍近くの数を見積もっている…)とビビりまくり、「自害せばやと思したる気色に見えける」という様子が語られています(本によっては〝腹を切る〟と尊氏がその場で宣言しています)。
※自害せばや…自害したい。
これに対して弟の直義が尊氏を「堅く諫め」ます。大丈夫だということを証明するために自分が先陣を切るので、「自害の事は、暫く思し召し留まらせ給ひ候へ」と尊氏に伝え、決死隊の二百五十騎が直義に付き従いました。戦下手なはずの直義が…と思うと、兄(の強運)を信じていたのだろうと思わずにはいられません。
さて、直義たちが進み出すと、誰が打ったのかわからない白い鏑矢が天から出現して敵の上を鳴り響いて飛んでいくのが見えたのを手始めに、奇跡のようなことが起こります。菊池軍の中で、直義の二百五十騎を三万騎と見間違えたり、波音が鬨の声に聞こえたり、白鷺が敵の白旗に見えたりといった混乱状態に陥る兵たちが続出して、戦いもせず逃げだしたというのです。ーーこれって完全に、幻視・幻聴の類ですよね。
「わけがわからない …人間じゃない」
「なんなんだ あの尊氏は!」
時行や玄蕃の思ったこと、何よりごもっともです(「南北朝鬼ごっこ」の何鬼なのかも不明という…)。
なお、『太平記』の相模川の戦いは、相模川が増水しているので足利軍は渡河を強行しないだろうと時行軍は判断し、負傷兵の手当てや兵の休息のため、あるいは、これまでの戦いで散ってしまった兵を集合させるため、待機をしました。ところが、高師直が上流から、佐々木道誉が下流から川を渡って時行軍を挟み撃ちにしたため、「一戦にも及ばず、皆鎌倉を差して引きける」とあります。
菊池武敏が惨敗した多々良浜の戦いを、相模川の戦いにトレースした松井先生の手腕は〝見事!〟の一言ですが、実際の戦いはどうだったのでしょうか。私の力ではこれ以上のことはわかりませんでしたが、「始め遠江の橋下より、佐夜の中山、江尻、高橋、箱根、相模川、片瀬、腰越、十間坂、酒屋、十七ヶ度の闘ひに、平家二万余騎の兵ども、或いは討たれ、或いは疵を蒙つて」という『太平記』の記述を見れば、わずか十日ほどの期間にこれだけの戦いにのぞんだ彼らが、まさに死力を尽くしたのであろうことは想像に難くありません。
※平家…北条氏のこと。
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さて、106話はまだまだショッキングなことがあるのですが、吹雪が高師直の〝子〟になってしまいました。「なら「冬」でいい」の師直の一言に、私は次のページがめくれませんでした。
ーー師冬だけは駄目!と、心の中で何度も叫びましたが、やはりだめでした。ネタバレが嫌なので伏せますが、時行にとって(吹雪にとっても)、これは辛い展開しか待っていないでしょう。
余談ですが、この少し前に、『逃げ上手の若君』について語る「逃げ若を撫でる会」(単行本発売月にオンラインで実施しています)を開催しました。足利学校の話題になった時に、〝優秀な生徒は強制的に「天狗」にさせられるんじゃないか〟ということを私が言ったところ、南北朝時代を楽しむ会の代表である齊藤さんが〝吹雪も天狗のお面かぶせられちゃってたのかな〟と発言されましたが、もっとタチの悪い面をかぶせられてしまい、吹雪の好きな私は悲しみが止まりません。それでも、師泰が「呆れた合理主義だな 兄者も」と評する高師直も嫌いでない自分がいます。
吹雪と高師直、一体この二人にはどのような結末が待っているのでしょうか。
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話を一度、多々良浜の戦いに戻します。この戦いを描いた最後には、『太平記』お得意の、尊氏の〝ラッキーマン〟認定がなされます。
これ全く菊池が不覚にもあらず、また左馬頭の謀にも依らず。ただ将軍、天下の主となり給ふべき過去の業因をもよほして、霊神擁護の威を加えしかば、この軍不慮に勝つ事を得て、九国、中国、悉く一時に随ひ靡きにけり。
※左馬頭…足利直義。
※将軍…足利尊氏。
※過去の業因をもよほして…よい果報をもたらす前世の善行があらわれて。
※不慮に…思いがけず。
※九国…九州。
足利尊氏に対立した人間や一族は悪なんかいな!?と、なんだか浮かばれない気持ちになります。
『ビジュアル日本の名将100傑』では、菊池武敏のことを「武略に長ける菊池一族のひとり。兄弟の武重、武光はいずれ劣らぬ勇将で、彼も決して無能ではない。」と、『太平記』の語り手同様に彼を弁護しています。さらには、「武士たちの多くは内心朝廷に嫌気が差し、武家の名門たる尊氏に好意を抱いていた。彼は敗因を内部に抱えたまま戦うしかなかったのである。」と同情的ですらあります。
『逃げ上手の若君』で、「尊氏の力」に「北条と諏訪以外の大半の武士が降伏し…」とあり、誰もが力に屈服するわけではないのがわかります。菊池一族も史実として足利には徹底的に対抗するのですが(菊池一族かっこいいです! そして『太平記』の語り手も気のせいか菊池一族には好意的な印象です)、このあとまもなく、すでに『逃げ上手の若君』に登場している人物の一族が、やはり尊氏と足利氏とは徹底的に対立します(彼の場合は「?」だから力が効かない可能性も…)。護良親王もそうでしたが、尊氏の力が効かない人たちにはどんな共通点があるのでしょうか。
「こうも深く尊氏様の力に中毒る奴は…」「以前にも力を浴びているか 心に強い飢えがあるかだ」
「飢える」とは、「欲求がみたされない状態」〔広辞苑〕を言います。「心の強い飢え」とは、(自分が自分として)愛されることへの「飢え」でしょう。吹雪は、父親に認められないどころか虐待を受けていた(父親から愛されていない)わけで、師直が吹雪の「親を殺した」理由に感づいたら、いや、そうでないとしても、ただ単に「父」として吹雪の働きを認めてあげるだけでも、吹雪はもはや〝戻って来られない〟のではないかという危険を感じます。
護良親王は、父の後醍醐天皇が尊氏を重用することを警戒して尊氏に対立して葬られてしまいましたが、倒幕に際して後醍醐天皇は護良親王を頼りにしていたのは確かです。倒幕後、尊氏に父の愛を奪われたにしても、愛に飢えていたわけではありません。彼もまた父帝を愛するがこそ、再び自分のことを見てほしかったからこそ、危険かつ邪魔な尊氏を遠ざけたかったのだと私は想像します。
また、「北条と諏訪」と「それ以外の大半の武士」との差は、信念や忠義の差なのでしょうか。この時代の武士の「欲(求)」は〝所領〟、現代で言えば〝金〟であり、そう考えると、「北条と諏訪」は欲得のために動いていないという結論になります。
諏訪時継は、諏訪を離れる際に、「北条時行なんかのためにどうして… 父上や御祖父上が命を懸けて戦を?」と言って納得しない子の頼継に、こう言い聞かせています(第61話「中先代1335」)。
「我らが「神」として繁栄できたのは北条様のおかげ その御恩は到底忘れる事はできない」
「さらには信濃の民を救うため 武家としての諏訪家の未来のため 悲運の王子を助けるという「義」のため このまま戦をしないという理由が無いのだ」
あ、こんなところでも期せずして父子が登場しました。頼継は泣いています。それでも、「すべては北条家への忠義のため!」(第1話)という信念は父・頼重と子・時継には共有されており、頼継もそれを引き継ぐという選択をするに違いありません。
そして、二年の間に本当の「父子」のようにお互いを思うようになった頼重と時行ですが、頼重がもはや普段のように頭脳ではぐらかすこともできず、また、時行は頼重を引き留めるために本気で怒っているのに胸が締め付けられます。頼重を行かせまいとする時行を制するのは血縁の泰家で、額には何も浮かんでいません(おそらく初めてのことでしょう…)。
「仰る通り… はなから我らは他人でした」
そう告げて背を向ける頼重を描く最後の一コマは、今これを書いていても涙が出そうになります。ーー時行から、もう奪わないであげてほしい。しかし、「尊氏の力」に屈しないというのは、頼重や時行がここで感じているような苦しみや悲しみを受け入れる覚悟と一体のものであるのだと、私は思うのです。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、『太平記』(岩波文庫)、歴史魂編集部編『ビジュアル日本の名将100傑』(アスキー・メディアワークス)を参照しています。〕
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