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2013年 夏の学会・研究会のまとめ⑦〔廃刊メルマガ記事より〕(2014年1月14日)
現在、昨年夏の学会・研究会のまとめをしています。第7回は、京都の花園大学で実施された〈解釈学会全国大会〉の第2弾です。今回は、第二会場「国語教育」分野の研究発表の続きで、さらにお二人の発表について報告したいと思います。
北海道根室高等学校教諭 花坂歩先生「古典初期学習者に〈読み〉を現象させるための授業実践研究―「恍惚感」からのアプローチ―」
「W.イーザーの現象学的読書行為論を理論的基盤に据え、論理的で、想像力のある読み手を育てるための方途を探ってきた」という花坂先生からは、高校一年生における古文教材を用いての意欲的な実践研究のご発表がありました。
先生のご研究において「恍惚感」とは、イーザーの指摘するテクストの構成要素としての「空白」に「読み手の主観性の混在」が生じること、(おそらく古典作品に限定してということでは)つまり、「「過去志向と未来志向が現在という時制において現象する際、そこに生じる高揚状態」と便宜上、定義し」ています。
よって、作品の「空白」の発見と、それに対する発問が重要となってきます。
質疑応答の中でも「良い発問」とされたのは、「その後のことです。この火事の一件を知らない「人々」が「良秀」の絵を褒めています。あなたは事情を知っています。絵を褒めている「人々」があなたに「この絵は本当にすばらしいですよね」のように同意を求めてきました。どのように応えますか。」というものでした。生徒作文も、「良秀の行為にも絵にも肯定的」「良秀の行為には否定的だが、絵には肯定的」「良秀の行為にも絵にも否定的」のそれぞれのカテゴリーに偏ることなく分かれていました。そして、この授業後に実施したアンケートでは、古典学習に対する肯定的な回答が数値を大きく伸ばしたということでした。
花坂先生は作品によって(例えば「児のそら寝」など)は、「空白」が少なくうまくいかなかったという感想が述べられましたが、作品によってそのそれぞれが違う形での「空白」を持っているはずで、教員側の「空白」の見つけ方次第では、非常に面白みのある実践ができると思われました。
聖ドミニコ学園中学・高等学校講師 伊藤久美子先生「大江健三郎『二百年の子供』の考察―国語科教材としての可能性―」
ノーベル文学賞作家でもある大江健三郎氏の随筆作品については、中学・高校の教科書でも採用されているが、それらと主に長編小説作品のテーマとの関連性をどう扱っていくことができるかという試みられた研究発表でした。
私も大江氏の小説作品はいくつか読んでいますが、確かに随筆と比べて学校の現場では扱いづらい面があると思われます(好き嫌いも分かれる作家さんだと思います)。しかし伊藤先生は、「必ずしも楽しいことばかりではない人生を、辛抱強く進み続ける力」を「言葉を吟味し、長文を繰り返し読み味わい、再読する度に新しい発見をする力」によって子どもたちに与えることこそが「国語科教員の大きな役割」であると述べ、発表を終えられました。
古典や名作は必ずしも人間の善の部分ばかりを描いてはいません。ロシア文学者の亀山郁夫先生は『罪と罰』を中学生の時に読んで、自分に主人公がのり移ってしまったかのように、殺人の罪に怯えて眠ることもできなかったと言っていたのを思い出します。今日の生徒たちの読書離れの勢いは驚くばかりであり(亀山先生のように、自分からこれを読もうと思って名作を手にとっていくということはほとんど期待できない状況で)、生徒の発達段階に応じて適切に作品のテーマを扱い、与えていくことは、国語科の教員の新しい課題なのかもしれません。