東日本大震災で気づかされたこと(2013年2月15日)
最初のテーマは、私が震災で何を考え、何を生徒たちに伝えたかということにしたいと思います。
震災の後の様々な報道の中で、私はある石碑の存在を知りました。詳細を知りたいと思っていたところ、東北出身の上司が地元で購入した本にそのことが記されていました。
岩手日報社『特別報道写真集 平成の三陸大津波 2011.3.11東日本大震災 岩手の記録』(岩手日報社 /2011年6月)65頁
「此処(ここ)より下に家を建てるな」
宮古市の重茂(おもえ)姉吉(あねよし)地区の入口には、そのように刻まれた石碑が立てられており、住民は漁業を営んでいるにもかかわらず、海から離れたその高台で暮らしているのだというのです。そして、3月11日の津波が東北の町や村を襲った中、姉吉のその石碑の手前で水は止まったのです。
この記事を読み、かつて姉吉に暮らして津波に襲われた人々の無念と、子孫の幸福を願う思いが一気に押し寄せ、胸が熱くなりました。
未来に生きる者たちの幸福を願う無数の声。――石に刻まれた一言を古典ととるかは意見の分かれるところだと思いますが、私には、日本中の至る所で発せられているその声が我々に届かなくなった時に、この国は存在しているのだろうかと思えてならないのです。
かねてより「津波てんでんこ」の教えが徹底され、避難の途中で合流した幼児やお年寄りの手を引きながら、一心に高台を目指したという釜石の小中学生の話も聞きました。また、大阪や東京にも津波を警告した碑があることを知りました。――声はあらゆるところで発せられていたのです。
「津波てんでんこ」…「津波のときは、お互い、問わず語らずの了解のうえで、親でも子でも、てんでんばらばらに、一分、一秒でも素早く、しかも急いで早く逃げようという」標語。「てんでんこ」は、「各自、銘々、それぞれに」の意を表す東北地方の方言で、津波から逃げるための教訓として用いられていた言葉であった(山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』(新日本出版社/2008年1月)「あとがき」による。ちなみに山下氏は、共倒れになることを避けるため、避難の際は弱者の手を引くことすらやめたほうがよいことを説き、津波の脅威を我々に訴えている)。
一方で、千年以上も前の記録など捨て置けばいいという現代人の態度を、昔の人々は哀れみ悲しんでいるのではないかと思わせるような事件が起きました。震災前すでに、『日本三代実録』などに残る大規模な津波の記録に基づき調査が行われ、科学的にも大津波があった事実は確かめられていたそうです。しかし、その調査を行った人々が警告を発していたというにもかかわらず、福島原発では何の対策もなされなかった…(なお、女川原発では警告に従って対策を行い、今回の大地震発生後の避難所になったと聞いています)。
産業技術総合研究所活断層・地震研究センターが行った貞観地震の研究による。『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』とは、平安前期の歴史書で、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の三代30年間(858~887)を編年体で著す。
「古人の記録を捨てる者に明日はない」
「民族の歴史を捨てる国に未来はない」
当時、高校三年生の古典の授業を担当した私は四月の冒頭の授業でそう叫び、新たな思いを胸に古典の指導をする決意を固めました。
しかし、このあととんでもないオチが…。
高校一年生から教えていた生徒たちが放課後こう言ったのです。
「俺たちもう先生が無駄に熱いのは知ってるからいいけど、初めて授業受けた奴らは『右翼だ』って騒いでたよ」
あちゃー。
次の日の授業で、「私は右翼ではなく、国を愛する一人の者です」と言って訂正しましたが、後ろの席で、一年生から教えている生徒の一人が噴き出していました。――そうです、これで私がこの生徒達の間で〝右翼確定〟となってしまったのは言うまでもありません(しかし弁明すると、何も私だけではなく大学で心理学を教えている知人も、ちょっと古典のことを話したりすると「右翼」と言われると嘆いていました)。
でも、それでもいいのです。もしそれで少しでも私や私の授業に興味を持ってくれて、古典が面白いなって思えてもらえれば本望です。
ちなみに、私は右翼ではありません(せっかく始めたブログの読者が最初から去ってしまうのは困ります…)。
もう一度言います。
私は、かつて日本の地に生きた人々が、我々未来を生きる者へと託した声を聞き、語り継いでいく学びが古典にあると信じています。そして、一人でも多くの古典の好きな子どもを増やしていきたいと心から願うのだけなのです。
YouTube「古典を学ぶ意義~ことばを豊かにする~」〔再生リスト〕でも改めてお伝えしています。 ※2020年5月16日加筆
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