【『逃げ上手の若君』全力応援!】(131)鬼の形相で正宗に作刀させた「国行」とは一体…? 金づちガンガン、妙なテンション、ドSな言葉責めの大人たちを〝本物〟と見抜く時行と郎党たちが現代の私たちに「師」について問う!?
「家長の奴め 鎌倉の食料蔵も残らず焼いていきおった!」
死してなお、北畠顕家をして白目を剝いて怒らせるとは……斯波家長、最後までぬかりなく、エグかったですね。
「やかましい! 米が無ければ菓子を食え!!」
そしてこの発言、世界的に有名なあの王妃よりも何百年も前に、顕家が奥州武士たちに向けて使用していた発言だったとは……(違っ! でも、似合いすぎです)。
『逃げ上手の若君』第131話では、正宗が再登場します。前回はまだ作品中に顕家が登場していませんでしたが、二人にはある共通点があると思いました。そうした点にも言及しつつ、調べたこと、考えたことを、今回も順に書き綴っていきたいと思います。
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「長尾の大太刀は国行って刀工の策でな 優男のくせに剛い刀作りやがる」
以前から時々このシリーズで申しておりますが、私は戦法や武具は苦手ゆえ〝「国行」って誰?〟となったので、調べてみました。
国行(1) (くにゆき)
?−?
鎌倉時代の刀工。
山城(京都府)来(らい)派の事実上の祖とされる。来は高麗(こうらい)(朝鮮),あるいは異国からの渡来を意味するといわれる。身幅がひろく豪壮な姿の太刀をつくり,国宝1口(ふり),重要文化財14口が現存。子に国俊,弟子に国光,国次らがいる。正元(しょうげん)(1259-60)ごろの人か。通称は来太郎。
国行(2) (くにゆき)
?−?
鎌倉時代の刀工。
大和(奈良県)当麻(たいま)寺の付近に居住した刀工集団当麻派の祖。当麻寺の僧兵の御用をつとめ,正応(しょうおう)-正和(しょうわ)(1288-1317)のころに活躍したとされる。代表作に太刀(国宝),小太刀(重要文化財)がある。通称は兵衛尉。
〝「国行⑴」「国行⑵」〔日本人名辞典〕って何よ?〟と思いましたが、⑴さんも⑵さんも、正宗とは違って鎌倉の刀工ではないのですね。しかも、辞書類では、その活動期間を正宗より早い時期に置いており、〝1337年にはすでに亡くなっているのでは?〟とも思いました。ただ、生没年は二人とも「?−?」ですね。
『逃げ上手の若君』の国行は、⑴さんなのかなと推測しました。⑵さんは、「当麻寺の僧兵の御用刀工」〔国史大辞典〕とありますし、⑴さんは、以下で引用した『国史大辞典』「来国行(らいくにゆき)」の項にもあるとおり、「年紀作はない」とあるので、漫画のキャラクターとしては、年代を若干無視して登場させることができると考えたからです。
鎌倉時代中期の山城国来(らい)派の刀工。来派の祖で来太郎と呼ばれるが銘はただ国行と二字にきり来の字を添えないし、また年紀作はない。姿は身幅広く豪壮で切先も太い。地は板目鍛え、刃文は小沸出来の大乱れ、下半は出入りがあって変化に富み、上半は広直仕立の小乱れ刃である。彫物があれば刀樋の程度。遺品はほとんど太刀である。子に来国俊があり、またその弟子に来国光や来国次らが出て、来派は鎌倉時代に繁栄を極める。国宝は太刀一口、重要文化財は太刀十四口ある。〔国史大辞典〕
また、古典『太平記』には、鎌倉陥落時における長崎為基(ためもと)の最期の戦いの場面で、国行の太刀「面影」の威力が語られています。
為基に従う兵たちはわずかに二十余騎になったので、敵は三千余騎のまん中に包みこんで、いきなり彼らを圧しつぶそうとした。しかし、為基が腰に帯びている太刀は面影という銘を持ち、来太郎国行が百日精進して、鉄百貫を使って三尺三寸に打ちあげた太刀なので、この刀の切っ先の前に立つ者は、あるいは兜の鉢をまっすぐ縦に切り裂かれ、あるいは鎧の胸板を袈裟がけに切り落され、またあるいは、為基が馬に乗ったまま敵の隊列を割って通って行くので、敵は皆追いたてられたので、あえて近づく者たちはいなかった。
※為基…現代語訳を参照した日本古典文学全集は「高泰」であったが、全集の脚注や岩波文庫版等を確認し、高泰の弟である「為基」に改めた。
「長尾ごと国行の大太刀をへし折ってこい」と鬼の形相で作刀する正宗の切なる〝大人の事情〟に、刀を打ってもらっている弧次郎はもちろん、亜也子と雫も言葉を失っていますが、〝正宗VS国行〟もいろいろな面で、今後の展開を盛り上げてくれそうです。
なお、「腕貫緒(うでぬきお)」は、『逃げ上手の若君』のオリジナルなのか否かがわからなかったので調べてみたところ、当時に存在した武具でした。
手貫緒(てぬきのお)
太刀拵の柄頭(つかがしら)につく兜金の部分に穿けた孔に通した緒。奈良時代には懸と呼び、中世には手貫緒(腕貫緒)と呼んだ。孔をあける代りに柄頭に鐶金物をとりつけ、それに手貫緒を通すことも行われた。手貫緒の途中に責鞐(せめこはぜ)をはめ、これを上下させることで二本の手貫緒の間に通した手を固定させ、太刀の柄が手から抜けないように加減する。また手貫緒の先には露金物(つゆがなもの)をつけている。のちには短い手貫緒は猿手(結金)金具に変わる。〔国史大辞典〕
※露金物…飾剣(かざりたち)、毛抜形太刀などの儀杖用太刀の手貫緒(てぬきのお)の先端につけられる小さい金物。重しの役目をするが、その形はさまざまで、正倉院宝物の金銀鈿荘唐大刀は筆形をしており、その様式を踏襲した平安時代の飾剣には六角筒状のものがある。〔国史大辞典〕
※猿手(さるで)…太刀の柄頭(つかがしら)の兜金(かぶとがね)につけた鐶。腕貫(うでぬき)の緒の形式化したもの。指を握り合わせた形からいう。〔日本国語大辞典〕
「大太刀」については、以前このシリーズで取り上げています。興味のある方は以下の回をご覧になってください。
※くり返しで恐縮ですが、なにぶん得意分野でないこともあり、誤りなどがあれば、ご指摘・ご教示いただければ幸いに存じます。
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「で すぐバテたろ」「あえてそうなるよう調整した」
シイナを重装備化したのは正宗の「悪ノリ」ゆえだと思っていましたが、そう思わせておいて、実はシイナに気付かれないように彼女の持つ望ましくない生き様を変えたいと思っていたのだとは……正宗にも松井先生にも、またしても〝してやられた!〟私でした。
「鍛冶はもちろん人間を見る目も私より上」とは、在りし日の諏訪頼重の言です(第101話「征夷大将軍1335」)。ーー頼重も、時行の郎党を自ら選んでいましたし、足利直義や関東庇番衆の人物分析も的確でした。自らの真意を隠すのも得意でしたが、確かに、正宗は別格ですね(シイナの話題の中で、さりげなく「軍師」である雫の自覚をも促しているのに気づかされます)。
「この男 敵味方の区別が無い 刀の持ち手の人生だけを考えている」
正宗の持つ人間としての器の大きさは、夏のこの一言に尽きるでしょう。
ここでまた、こんなことを考えました。ーー時行と郎党にとっての頼重と正宗。時行に限れば、小笠原貞宗に楠木正成。もしかしたら、瘴奸だってそうでだったのかもしれませんし、最近であれば北畠顕家もでしょう。かつて自分の郎党であり軍師であった吹雪のことも、時行は「師」と見ています。ーーあらゆる場所に、あらゆるタイプの「師」が存在するのであれば、学校などいらないのではないでしょうか。
そしてもうひとつ、気になることがあります。
「さあもう行け変なガキ共 迷いながら刀を振るのもまた人生だ」
正宗は、態度も言葉も相当にキツイです。こと時行に対しては、再会していきなり「おう時坊! お前なかなか死なねえな!」と言って、金づちで頭「ゴンゴン」です。
頼重だって、衝撃的な初登場シーンを皆さん覚えているはずです。第1話の時行は、頼重のことを「怪しい男」「もう完っ璧に偽り」とその人間性を疑っていますし、頼重も頼重で、時折見せる生真面目さとは裏腹に、終始妙なテンションでした。
北畠顕家に至っては、奥州武士たちにも時行にも、自らの高スペックを誇ってドSな言葉責めを連発しています。
ーーところが、彼らは常に目の前にいる自分とかかわりのある人間たちと真摯に向き合っています。そして、曇りなき目で物事を見ることができる時行と郎党たちは、彼らこそ信頼に足る大人であることを見抜いています。
足利尊氏を前に、京の貴族たちが「きゃー」「ステキじゃ」「キュンぞよ」と言ってポーッとしている場面がありますが(第101話「征夷大将軍1335」)、いい大人が逆に、常にクリーンで穏やかな尊氏の〝本性〟を見抜けないのです。
私はもちろん、子どもを金づちで殴ったり、妙なテンションや言葉責めで追い詰めることを肯定したりはしません(長年、教育現場にもいましたので、現代社会では基本的にどれもNGです!)。物腰柔らかに、そうですね……楠木正成みたいユーモアと余裕をもって子どもに接するのが、現代はベストなのかもしれません(確かに、勉強を教えている小学生の男の子に〝人格者〟の意味を説明した際、〝『逃げ上手の若君』では誰かな?〟と聞いたら、真っ先に正成の名前が上がりました)。
長く教育の現場にいた私の実感でもあるのですが、大人はもちろん、年々子どもまで、漂白されたかのような〝クリーン〟なキャッチコピーや物や人のみを良しとし、それらの本当の目的に気づくことないといったことが増えている気がするのです。それと同時に、〝良薬口に苦し〟の言葉に込められているような、物事の真意を見抜く力が弱まっている気もしてならないのです。
古来より悪魔は、力の強い悪魔ほど、おぞましい姿などではなく、美しい顔をしているのだと言います。『逃げ上手の若君』では、子どもたちにとって真の指導者である人間ほど、性格や態度がムチャクチャに描かれているのに気づきます。ーー今世の中に、あるいは日本に、そいうった人たちがどれだけ存在し、また、それを見抜くことができる人間がどれだけいるのか、(どちらの点でも?)自分は大丈夫なのかということに不安を覚えながら、ぼんやりと考えるのです。
〔『太平記』(岩波文庫)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕