【『逃げ上手の若君』全力応援!】(155)京の雅を楽しむはずの「端午の節句」が東夷たちのガチな「石合戦」で幕を閉じ……白目を剥いて怒る北畠顕家が見せる「奥州」の文化への「敬意」
「おやみげ買ってこ おやげみ!」
『逃げ上手の若君』第155話の始まりは、堺湊での心休まるひと時にほっこりを上乗せする(?)新田徳寿丸くん。〝おみやげ〟を〝おみあげ〟と言い間違える子どもは多いですが、セリフをよく見ると、それですらなく二度間違えている(笑)。
「バカだバカだと思っていた若殿が… いつの間にか郎党への気遣いができるように」
感激して涙を流す堀口貞満の本音にはびっくりです。常に「若殿」の傍らで表情を変えもしない堀口でしたが、徳寿丸のことをしっかりと「バカ」認定していたとは……。主君をよく理解して、敵には気取られず味方をまとめるという点では、高師直にも負けていないのでは!?と思いました。
ちなみに、堀口貞満は古典『太平記』で描かれる多くの人物の中でも、スカッとした気持ちになれる、大好きな登場人物の一人です。
騙しや嘘、裏切りが当たり前のこの時代に、「バカ」であり続ける……もとい、愚直に義を貫こうとする新田義貞や徳寿丸(義興)の脇を固める男たちが、熱くてカッコいいです!
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「端午の節句にかこつけて祭り騒ぎだ!」
現在は、五月五日は子どもの日、男の子の日といった印象が強いと思いますが、「端午の節句」が由来の祝日です。餅の好きな私は〝柏餅だよね~〟などと思ってしまいますが、柏餅が端午の節句のお供えになるのは江戸中期頃で(柏餅自体は奈良時代には唐菓子の一つとして伝来し、室町時代末期には一般的になったということです〔ブリタニカ国際大百科事典〕)、北畠顕家が「酒も餅も上物だぞ」と言ったのは、以下の引用にあって作品にも登場した菖蒲酒とペアの粽(ちまき)かもしれません。
端午(たんご)
五月五日。端ははじめという意味(正月を端月(たんげつ)という類)で、端午は、月のはじめの午(うま)の日をいうことば。
中国の古俗によれば、端午は野外に出て薬草を摘んだり、草を闘わす野遊びや競渡(けいと)などが行われる日で、艾(よもぎ)で作った人形を門戸にかけ、艾や綵(あや)で虎の形をつくって頭にいただき、蘭を入れた湯で沐浴をし、五色の糸を臂(ひじ)にかけ、または菖蒲を浸した酒を飲むなど、病気・災厄を祓う目的の行事が行われた。
わが国でも、菖蒲・蓬・楝などに駆魔の力を認め、これを身に帯びたり屋根にかける風習があって、宮中でも殿舎に菖蒲を葺いて火災を避けるまじないとし、また南殿の階の東西に菖蒲で作った小さい御殿や輿をすえる風があった。蘭湯に相当するものに菖蒲湯があり、菖蒲酒・粽も共通である。
※競渡…船による競争。
※綵…あやぎぬ。染め模様の美しい絹。また、美しい色をとりあわせて染めた絹。
※楝(おうち(あふち))…木の名。せんだん科の落葉高木。暖かい土地に自生する。葉は羽状。春、こずえに淡紫色の花をつけ、実は薬用になる。せんだん。
※粽(ちまき)…ちまき。もち米をあしの葉や、竹の皮などの葉で三角形に包んで蒸した食物。もと、水神や、屈原をまつった楚の習慣によるといわれる。
〔【参考文献】鈴木裳三『日本年中行事辞典』〔角川小辞典16〕 ※初版:昭和52年12月20日発行〕
「何ソレ 超キレイ!」ーー私もそう思いました。
薬玉(くすだま)
五月五日の端午の節供に、邪気を払い、不浄を避けるものとして柱や簾(すだれ)にかけたもの。麝香(じゃこう)、沈香(じんこう)、丁子(ちょうじ)などの香料を錦の袋に入れ、円形にして糸や造花で飾り、菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)をあしらい、五色の糸を長く垂らしたもの。長命縷。続命縷(しょくめいる)。くすりのたま。《季・夏》〔日本国語大辞典〕
昭和生まれの私は〝くす玉〟と言うと、運動会や祝賀会といった場所でなじみがあるのですが、それは「薬玉」に似せて作った「式典や七夕の飾りなど」のことだということです。ちなみに、若い人は知らないかもしれないので補足すると、「式典用のものは、中心から左右に割れて、中から垂れ幕や紙吹雪などが出てきたり」〔日本国語大辞典〕します。運動会では、お手玉を投げてそれを割ったりしました。
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第155話は、日本の文化や伝統について、知らなかったことを知ったり、見直してみたりするものが多くありました。
現代では意味が変わって、断片的に古来の風習が残るのが確かめられた「端午の節句」でしたが、「曲水宴」や「防人歌」については、歴史や国語(古典)の授業で教わったので知っている人も多いのではないでしょうか。
うっとりの表情で京の優雅な遊びを提案する顕家なのに、最後は『8時だョ!全員集合』のコントのようなしっちゃかめっちゃかな状態となり、白目を剥いて終わってしまうというお約束感がツボです。「石合戦」で終了するなど、まさにです(笑)。
「石合戦」は、「印地」とか「印地打ち」と呼ばれていました。
印地(いんじ)
川原などで、二手に分かれて小石を投げ合い勝負を争う遊び。鎌倉時代に盛んで、多くの死傷者が出て禁止されたこともあったが、江戸末期には5月5日の男の子の遊びとなった。石合戦。印地打ち。〔デジタル大辞泉〕
「昔は本当の戦争にも石を用いた。(中略)昔は石合戦を得意とした軍勢を印地とよんだといわれる(『平家物語』『義経記 』)。」〔日本大百科全書(ニッポニカ)〕ともあり、南部さんのセリフが、ガチすぎです(南部さんは単にスラングを言っているだけで、美女通訳さんの〝超訳〟の可能性もアリ……っていうか、そこは〝優雅に〟翻訳している場合ではないのでは!?)。
文化といったところでもうひとつ、これもなんとなく昭和にはご進物でよく見たなあという「荒巻鮭」には、どのような歴史があるのかが気になりました。
新巻鮭は、平安時代(794年~1182年)より前から作られていたと考えられますが、庶民が食べるようになったのは江戸時代(1603年~1868年)になってからです。 ※荒巻鮭=新巻鮭
〔「新巻鮭とはどんな鮭? なぜ新巻と言うの?」日本文化研究ブログより〕
上記の記事の中には、「鮭が取れない西日本では、鮭ではなく鰤(ぶり)を塩漬けした「塩鰤」がお正月の食卓に並ぶそうですよ。」とも書いてあったので、さっきまで京の公家然としていた顕家が、「ゴクン」と喉を鳴らして物欲しそうにしている姿にあらためてじ~んときました。「四条様」のようなマウントではない顕家の公家としてのプライドが光った前半に対して、「東夷」とその文化への「敬意」が見て取れる一コマです。
「私は幸せ者だ ゆく先々で家族を得る」「頼重殿が父なら すぐ近くで皆を引っ張る貴方はまるで」
堀口貞満は、「同世代の貴方に触発されて若殿は成長した」と、心の中で時行へ感謝を述べていました(徳寿丸は思考や言葉より先に、身体が勝手に自分が良いと思った物事に反応しているため、ストーリーの展開上、堀口がそれを代弁……)。そして、時行もまた、顕家を慕う思いを心のうちに明かしています。ーーもちろん、奥州の武将とその配下の兵たちもでしょう。
顕家や時行のように、自分が自分であることを貫く人間が周囲にいるだけで、人は、特別な教育や指導などを受けずとも、他者との関係性において自分の能力や個性を発揮しようという方向へと向かうのではないかということを考えさせられます。そして、その導き手は、血のつながった家族である必要はまったくないのです。
〔鈴木裳三『日本年中行事辞典』(角川小辞典16)を参照しています。〕
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【おまけ】
「亜也子ちゃん それ捨てて」
「なんで」
「多分それ特級呪物」
「失礼だよ 顕家様に!」
この会話の意味について、戦国時代がお好きな方ならば、雫には〝ある未来〟が見えたのだとすぐにピンときたと思います。それは、かつて諏訪頼重が「ここから先の未来は見ないようにしておりまする…」(第39話「鷹1335」)としていた、諏訪氏が武田氏に滅ぼされる未来ですね……。
顕家が亜也子に渡した「風林火山」の旗は諏訪大社に納められ、後に「余を理解する大軍略家」の武田信玄が現れ、彼の旗印となったという展開が想像されます。第155話の説明では、「風林火山」の旗の文言は「孫氏の兵法」に由来し、南北朝時代に顕家が使用した可能性が示されていました。
このことは、『逃げ上手の若君』について楽しくおしゃべりをする「『逃げ若』を撫でる会」でも話題になったことがありましたが、信玄の「風林火山」と顕家との関係がわからずじまいでした。まさか、阿倍野神社に北畠親房筆とされる旗が伝わっていたとは、初めて知りました。
松井先生は、この旗を直に見たか、写真を頂けたかしたのでしょうか!?(『解説上手の若君』の文面だと、監修の本郷和人先生でも、実物をご覧になっていないように見受けられます)。
それにしても、諏訪氏滅亡時の当主の名前が「諏訪頼重」とは、どんな偶然(因縁?)なのかといつも思います(『逃げ上手の若君』の連載前は、戦国時代の「諏訪頼重」が有名でした)。
※以下、いずれも「日本人名大辞典」により引用。
諏訪頼重(1)(すわ-よりしげ)
?−1335
鎌倉-南北朝時代の武将。
信濃(しなの)(長野県)諏訪上社大祝(おおはふり)(神職)。鎌倉幕府再興をはかった中先代(なかせんだい)の乱の中心人物。建武(けんむ)2年7月北条高時の子時行(中先代)を擁して信濃で挙兵,守護小笠原貞宗の軍をやぶり鎌倉に攻めこんだが足利尊氏に敗北,同年8月19日自害した。法名は照雲。
諏訪頼重(2)(すわ-よりしげ)
1516−1542
戦国時代の武将。
永正(えいしょう)13年生まれ。天文(てんぶん)8年信濃(しなの)(長野県)諏訪惣領(そうりょう)家をつぐ。翌年武田信玄の妹禰々(ねね)を妻とするが,11年信玄に攻められ降伏。甲府にうつされ同年7月20日自殺,諏訪惣領家は滅亡した。27歳。幼名は宮増丸。通称は刑部大輔。