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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(117)東国・奥州の武士どもを圧倒する武と美!? 北畠顕家、ボロをまとって伊豆の「隠れ里」に現る

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年7月15日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「まつ毛バサバサ」「化粧キメキメ

 北畠顕家がボロ布を脱いで正体を現した瞬間に、男子よりも亜也子と雫がそのイケメンぶりにストレートに反応を示してしまっていました(雫がさり気なく、頼重から受け継いだ未来予知能力を使ってもいましたね)。
 時行たち逃若党が京都で楠木正成に出会った時もそう思いましたが、〝やっぱ週刊少年ジャンプ作品だわ~〟といった『逃げ上手の若君』第117話の展開に、私もやや興奮気味です。

 そして、狙ったのかどうなのか、NHK総合『歴史探偵』では、時行と顕家をクローズアップした番組が放送され、松井優征先生と監修の本郷和人先生と石埜三千穂先生が登場しました! 

南北朝の若君たち 北条時行と北畠顕家」(初回放送日: 2023年7月12日)
 あの人気漫画の主人公・北条時行。わずか10歳で鎌倉奪還に成功した少年の素顔とは!?最強の貴公子・北畠顕家も登場!激動の南北朝時代を駆け抜けた2人の若君の戦い。

 松井先生を初めて見た歴友は、〝松井先生イケメン!〟と言って驚いて連絡してきました(笑)。

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 「この時代は敗残武士の隠れ里が全国にあり 末裔が現代まで住む場所もある」「彼らは息を潜め時に何百年も潜伏し その神秘性は数々の伝承や童話を生んだ

 例えば、「平家の隠れ里」とネットで検索をかけてその一覧を確認してみただけでも80近くの場所が記されていました。有名な昔話「おむすびころりん」には「鼠浄土ねずみじょうど」といった名称があるのですが、伝承の背景には「敗残武士の隠れ里」の存在が暗示されているのではないかとされています。
 また、『逃げ上手の若君』で時行たちが潜伏している伊豆と南北朝争乱期で言うと、新田義貞の弟・脇屋義助の一族の中には、作品の「インターミッション1336」中の尊氏との箱根での戦いで敗れ、伊豆に逃げ延び「脇田」と名乗り、近代に入ってそこで事業を起こしたといった事実があることを地元の郷土史家から教わりました。
 九州から戦いに加わった菊池一族の「菊池千本槍」の伝承も有名な箱根ですが、やはり伊豆にその末裔だという菊池さん達がいらしゃるということでした。おそらく、負傷して九州に戻ることのできなかった人たちがたくさんいたのだろうと想像されます。
 私のご先祖様方も、「武田の落ち武者」として伊豆に逃げ延びて暮らしたということを聞いています。寺の墓地にあって読み取ることができる墓石の年号は江戸時代中期のもので、そこに至るまで百年以上は素性も隠していたかもしれません。土地を出て暮らす者が出たのは私の父の代であり、実に三百年の時を経ています。

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静岡県は今でこそ茶の名産地ですが、「闘茶」の世界では、茶の栽培が始められた
京都の茶のみが「本茶」、それ以外の産地の茶は「非茶」とされていたそうです。

 さて、話題を北畠顕家に戻したいと思います。これまで、「敗残武士の隠れ里」の話をしてきましたが、そんな場所に「オーラ」でキッラキラに輝く顕家がそのまま乗り込んだら、目立ってしまって大変なことになりますね。「襤褸切ぼろき」をまとった「変なの」でいた方が怪しまれないというのが、「隠れ里」の真実なのでしょうが……「隠れ里」以前に、強烈なまでの「武士」「東国」に対する「差別意識」の持ち主です。ただ、これについては程度の差はあれ、京の公家(京周辺の人間を含む)が抱いていた意識であるかと思います。
 古典文学作品では当たり前のように様々なエピソードや表現があるので例をあげたら大変なことになってしまうので、『太平記』でも何度も登場する次の言葉を紹介したいと思います。

東夷(あづまえびす・とうい)
 京都からみて、東国の人、特に無骨で粗野な東国武士をあざけっていった語。
〔デジタル大辞泉〕

 「」には、野蛮人・未開人の意味があります。以前『太平記』を読んでいて、山村や漁村で生活する人々ですら、京周辺と東国とでおそろしく差をつけた表現をしているのが気になったことがあります。
 第117話冒頭で、顕家は時行たちが潜む伊豆の山奥に足を踏み入れて、「人である余には耐えられん」と言っていますが、武士は「武士という生物」であり、人扱いすらしていないのですね。
 弧次郎はそんな顕家に対して、「武士を見下すのも大概に…」と、怒りを隠せない様子です。時は経てども、東国出身者である私は、古典文学作品中の〝東国ディスり〟を見ると、〝なんてことを!〟と反発してしまいます。そんなわけで、顕家が統治を任された「奥州」などは、荒くれ者たちの無法地帯みたいなものだったかもしれません。
 そこに送り込むにふさわしい人物が、「傑出した文武に美まで備えた南朝最強の貴公子である」北畠顕家であったその理由とはどこにあるのでしょうか。「苛烈な言葉責め えぐい位の差別意識 遠慮も容赦もない一矢」には疑うことなき自信に満ち、「人がそのまま太陽になったような輝き」を放つ彼は、その存在感だけで、言葉も通じぬ未開人どもを圧倒することができたといったところでしょうか。
 以前、本当に本人が書いたものであるかは疑わしいとされながらも、奥州で顕家が書いたのだという文書を読んだことがあります。文章からは、帝の描いた理想を実現しようという気概に満ちあふれ、強く自己を信頼する若者の姿が思い浮かびました。
 最後に、顕家の装束ですが、彼が大好きな友人によれば、「蘭陵王らんりょうおう」の舞を意識した衣装という印象を受けたということでした。

 元徳二年(一三三〇)十三歳で左中弁となる新例をひらき、翌年参議で左近衛中将を兼ね、空前の昇進を示した。その春後醍醐天皇の北山行幸に供奉して、花宴に陵王の舞姿を披露したことが『増鏡』にみえる。〔国史大辞典〕

 「蘭陵王」=「陵王」については、以下を参照してください。

作品と鑑賞 舞楽:陵王

 〝顕家が美少年だったという記録などない〟ということを言った、かつて知り合いだった歴史マニアの方もいました。歴史学では、確たる証拠(記録)は何よりも大事なのかもしれませんが、冒頭で紹介した『歴史探偵』で映った顕家の書状の字の美しさや残された文章、物語や伝承は、顕家が「傑出した文武に美まで備えた南朝最強の貴公子である」ことを疑わせない強さを持つと感じるのは、私だけではなかったとしたら嬉しいです。

〔参考とした辞書・事典類は記事の中で示しています。〕


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