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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(169)北畠顕家が奥州の「花」たちに託した未来……その始まりの地である「霊山」をいつか私も訪れて訪れてみたい
南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年8月30日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕
『逃げ上手の若君』第169話で花と散った北畠顕家についてあれこれ書くのは、何となく野暮な気がしている私がいます。しかしながら、顕家に付き従った粗野な奥州武士の一人が、その思い出をつたない言葉で語っているよ……くらいの気持ちで、私が顕家の最期に抱いた様々な思いについて読んでいただければ幸いです。
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「松姫 何度言っても離脱せんから汝も死地だ 後悔は」
顕家の問いかけにかぶりを振る松姫。彼女が無口なのには理由がありました。単行本発売ごとに開催している『逃げ上手の若君』について楽しくおしゃべりする会でも、当初から松姫の存在に注目が集まり、どうして顕家に従っているのかといったことで意見が交わされました。一応、亜也子のように「便女(びんにょ)」的な役割を持った少女なのだろうということでその時はおさめましたが、ただの便女ではなかったのですね……。
松姫の置かれた立場に単に同情するのでも突き放すのでもなく、可憐な少女であることに「敬意」を払い、彼女が彼女であることをすべて肯定した顕家は、真の貴族男性でありナイト(騎士)だと思いました。佐々木道誉が「敗北感で追撃する気も失せたわ」と言っているのも、文化においてはしょせん成り上がりの婆娑羅者にすぎない自分との差を見せつけられた「敗北感」でもあるのかもしれません(……とはいえ、「花上手」の点で「敗北感」を感じるあたりが、同様に婆娑羅大名と言われる高師直や土岐頼遠と道誉との違いですね)。
顕家と出会わなければ、そこで松姫はあらゆる意味での人生を終えていた可能性は否定できません。顕家に従軍した数年間というのは、傍から見ると彼女の人生の付けたりかおまけとみなされる可能性もあります。しかしながら、私はそうは考えません。松姫の人生は、顕家に出会ったことでむしろ彼女〝本来〟のものに変わったとも言えないでしょうか。命の輝きとは、その長さや持ち前の能力が生かされていることではなく、どれだけ真剣に自らの生と向き合うことができたかという質の問題であることを、あらためて考えさせられるのです。
松姫に秘められたエピソードを知り、私は第161話で〝本来〟の強さを見せた宇都宮公綱を思い出しました。その際に、顕家軍の強さの本質が、必要とされていない人がいないこと、誰一人欠けることがないことであるという自論を述べましたが、松姫もまた、顕家軍に欠けてはならない一人であったのです。
ーー顕家によって払われた「敬意」によって、自らのかけがいのない生の尊さを知ることができたからこそ、顕家軍に属する武将も兵も、自らの命も顧みずに顕家の救出に必死となっているのです。
人がその生涯で誰と出会うのかは、人一人の人生を根底から大きく変えてしまうのです。それは、こともあろうか足利尊氏と佐々木道誉に天賦の才を発見されてしまった麻呂こと清原国司や土岐頼遠の弾丸となって死ぬはずだった下がり眉君たちによって、『逃げ上手の若君』では対比的に描かれています。
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![](https://assets.st-note.com/img/1725114504697-2aIS7hQN7j.jpg)
「顕家様の命に従う …退却…!」
「…南部殿 大将軍の御供頼みますぞ」
顕家の救出を諦めて退却を決めた伊達行朝と結城宗広の無念はいかばかりか……美しく咲いた花が舞う中で、顕家の真の優しさと強さを〝思い出し〟て、私も彼らとともに涙しました。
顕家の最期のメッセージは、彼らを魂の面でも生かすことでした。彼らがここで顕家とともに討ち死にするということは、敵に対する恨みや憎しみを死後も引きずり、輪廻転生の「檻」に囚われることになります。
ーーそうです、奥州の武将と武士たちが顕家とともに西へと兵を進めたのは、「公武合体アキレンジャー」を実現するためだったではないですか。恨みと憎しみを未来につなぐのではなく、一人一人の個性、顕家はそれを「花」と見立てていましたが、それを生かした誰もが必要とされる、誰一人欠けることのない国づくりの理想をつなげてくれと、顕家は時行と皆に託したのです。顕家の強い思い、少しくすぐったい言い方をすれば「愛」の波動に、つぼみであった花たちも共鳴したに違いありません。
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昨年、楠木正成を祀る湊川神社をお参りした際に、建武中興十五社会が編集・発行する『南朝関係十五神社巡拝案内記』という小冊子を手に入れました。どの神社も私にとっては魅力的だったのですが、「靈山(りょうぜん)神社」のページの「霊山」の凛とした、神秘的な山の姿をとらえた写真に魅かれました。
解説には「貞観元年、慈覚大師により天台宗を東北地方に布教する拠点として開山され、南岳山山王院霊山寺が建立された。往事は三千数百房を数えたと伝えられる。北畠顕家卿は結城宗広公のすすめにより、延元2年1月8日、国府を多賀城より霊山に移された。全山にわたり、霊山寺と国司舘の礎石が発見、保存されている。」とあります。
南朝ゆかりの熊本県の菊池には、後醍醐天皇の皇子である懐良親王が京からもたらしたという伝承のある「松風」という風雅なお菓子があります。最近では、職場近くのターミナル駅の百貨店でも売っていることがわかり、時々購入するのですが、このお菓子を口にする度に私は、懐良親王と菊池一族との間にあったであろう、戦い以外の心の交流に思いを馳せます。
東北の地で、「松風」のような伝承が残る物も知りたいのですが、顕家と奥州の武将や武士たちが交わした心を感じ取ってみたいと私は思い、霊山神社にいつか足を運びたいと考えています。
〔建武中興十五社会『南朝関係十五神社巡拝案内記』を参照しています。〕