【鳥取寺社縁起シリーズ】「因幡堂縁起絵巻」(19)
■寺社縁起本文・注釈・現代語訳
__________________________________ 本文(翻刻)は、『企画展 はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』〔鳥取県立博物館/2008年10月4日〕の巻末「鳥取県関係寺社縁起史料集」のものを使用しています。
※「因幡堂縁起絵巻」の概要は第1回をご覧ください。
**********************************
【 第十三段 】
承元三年の春の比五条東洞院に大貳
の三位といふ人のむすめ十あまりなる※1かみの
しらかなりけれは佛にいのり申さむとてつほ
ねに三七日参寵※2しけるにニ七日といふに
温病をやみ出しけり三品申けるは利生こ
そなからめはてはかかるいたはりをする果報
の程こそ心うけれ是よりいつこへも行へき
よし申つつむなしく局にてやみけれは師
の老僧も面目をうしなひけるところに七日と
いふにやまひいへぬ髪皆ぬけて尼のこと
しそののち黒きかみうつくしくなかくおひ
けれは三位悦事かきりなくて種々の願を
そ果ける
※1 テキストの本文(翻刻)は「る」となっているが、絵巻本体の写真では「り」か。
※2 テキストの本文(翻刻)は「寵」となっているが、絵巻本体の写真では「籠」か。
→承元*三年の春の比、五条東洞院*に大貳
の三位*といふ人のむすめ十あまりなり。髪の
白髪なりければ「佛にいのり申さむ」とて局
に三七日*参籠しけるにニ七日*といふに
温病*を病み出だしけり。三品*申しけるは「利生こ
そなからめ。果てはかかるいたはり*をする果報*
の程こそ憂けれ。是よりいづこへも行くべき」
よし申しつつ、むなしく局にて病みければ師
の老僧も面目をうしなひけるところに七日と
いふにやまひ癒へぬ。髪皆ぬけて尼のごと
し。そののち黒き髪うつくしくながく生ひ*
ければ三位悦ぶ事かぎりなくて種々の願を
ぞ果たしける。
〈注釈(語の意味)〉
*承元(じょうげん・しょうげん)…鎌倉前期、土御門(つちみかど)・順徳(じゅんとく)天皇朝の年号。建永2年10月25日(1207年11月16日)改元、承元5年3月9日(1211年4月23日)建暦に改元。
*東洞院(ひがしのとういん)…平安京左京の南北の大路の一。幅員八丈。三坊と四坊との境をなす。現在の東洞院通がほぼこれに当る。中古、沿道には棗院、枇杷殿、小一条(こいちでう)、花山院、小二条、竹三条、東三条内裏、六条内裏、弘誓院などの邸宅や六角堂、因幡堂があった。藤原邦綱の土御門東洞院殿は高倉天皇の仮御所となり、花園天皇のころから里内裏となる。近世これが禁裏となって、東洞院通は、丸太町通以北を公家邸が占め、丸太町通以南が町家となり(絵絹・茶柄杓・鎧象嵌・鞍打・金銀粉・三味線・絵刷毛などの売り屋があった)、七条より南は竹田街道(たけだかいだう)に続いた。古くは「東院東路(日本紀略・康保元・五・三)」、東院大路(とうゐんのおほち)、「東院東大路(御堂関白記・寛弘三・九・二二)」などと呼ばれた。〔角川古語大辞典〕
*大貳の三位(だいにのさんみ)…平安中期の女流歌人。藤原宣孝と紫式部との子。本名は賢子(けんし)。従三位典侍となり、藤三位(とうさんみ)また祖父為時の官名から越後の弁と称し、大宰大弐高階成章(たかしなのなりあきら)と結婚して大弐三位と呼ばれるようになった。上東門院女房、後冷泉天皇乳母などを勤め、歌は「後拾遺和歌集」以下に見える。家集に「藤三位集(大弐三位集)」がある。生没年未詳。〔日本国語大辞典〕
*三七日(さんしちにち)…二一日間。祈願・勤行などを行なう日数の単位である七日を三つ重ねた期間。また、その最後の日にあたる二一日目。〔日本国語大辞典〕
*二七日(にしちにち)…一四日間。特に、人の死後一四日間。または、一四日目にあたる日。ふたなぬか。
*温病(おんびょう・うんびょう)=瘟病・瘟疫…一時的にはやる伝染病。疫病。瘟疾(おんしつ)。
*三品(さんぼん)…三位。「大貳の三位」を指す。
*いたはり…病気。
*果報…因果応報。前世の行いのむくい。
*生(お)ふ…生ずる。はえる。生長する。
〈現代語訳〉
承元三年の春の頃、五条の東洞院大路に大弐
の三位という人の娘が(いて)十歳余りであった。髪が
白髪だったので「仏に祈り申し上げよう」といって局
に二十一日間参寵したところ十四日というところで
流行りの病を発症した。(大弐の)三位が申したことには「仏の利益は
ないのだろう。しまいにはこんな病気になる前世の行いの報い
というのがつらい。ここより(ほか)どこへ行けばよいのか(この仏のところ以外どこにもない)」
という旨をくりかえし申し上げながらも、なすすべなく(娘は)局で病の床にあったので導師の
の老僧も面目がまるつぶれだったところに七日と
いうところで病が快復した。髪はすべて抜けて尼のよう
であった。(しかし)その後に黒い髪が好ましい状態で長々と生え
てきたので三位が悦ぶことはこの上なくてもろもろの祈願をほどいて
御礼参りをした。
〔「因幡堂縁起絵巻」(19)おわり〕