【『逃げ上手の若君』全力応援!】(167‐1)北条全軍なぜか〝あの人〟の顔になって号泣、そして、南部師行の奥州訛りや時折見せる〝らしからぬ〟態度の伏線回収、見事!
「この男には 勝てない 絶対に!!」
『逃げ上手の若君』第167話の後半の展開……おかしいですよね。第165話の「こうして 「石津の戦い」は顕家軍の勝利に終わり 高師直は討ち取られた」のナレーション同様、二度見、三度見してしまいました。
時行以下、北条軍の大の男たちまで大泣きしているのと、時行の泣き顔が誰かに似ているのに気がづいて、やっと〝あ~っ〟と思い出しました。
第149話(「茶色い記憶1338」)で、駿河四郎を「手本」として「一瞬で最大号泣」の練習を全軍でしていたアレです!
十八話待ってからの伏線回収でしたが、お盆休みに入るので週刊少年ジャンプも一週お休みです。
いやしかし、どうみてもおかしな展開なのですが、北畠顕家を高師泰に任せて「我と援軍で虫退治だ」という足利尊氏には、時行を追い詰められるという一心で、それに気づいていないようです(しかも、圧倒的な差を見せつけられた恐怖心や絶望感というのは、尊氏に巣食う何らかの存在にとっては最高の御馳走のひとつなのかもしれません)。
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「俺と顕家様の命は尽きる だがお前の死に場所は違うはずだ」
南部氏の本貫は甲斐であることを南北朝時代を楽しむ会で教えてもらっていたため、ハリソン・フォードっぽい人なのはとりあえずおいておいても、言葉の面では疑問がありました。
※本貫(ほんがん)…令制で、戸籍に記載された土地。転じて、出身地。本籍。本籍地。
上で引用した中に「足利尊氏・直義が後醍醐天皇に叛旗を翻すと、北畠顕家はそれを討つため義良親王を奉じて西上したが、師行は弟政長とともに陸奥にとどまり、足利方についた津軽の豪族曾我貞光・安東家季らと攻防を展開した。延元元年(北朝建武三、一三三六)北畠顕家は義良親王とともに再び陸奥国府に下向し、翌年戦況悪化のため霊山(福島県伊達郡霊山町)に移ったが、師行もこれに従った。」とあり、以降は『逃げ上手の若君』でも描かれているとおりです。
南部師行が北畠顕家に従っているのは、顕家と志を同じくする熱いスピリットの持ち主だったからなのですね!
今年のお正月に、顕家を祀る「阿倍野神社」で美麗な切り絵の御朱印を受けることができたので、ちょうど大阪に用があった妹がお土産で持ち帰ってくれました。その際に、神社のご由緒もいただいてきたので読みました。阿倍野神社の御祭神は北畠親房・顕家の父子ですが、摂末社の「勲之宮」には「南部師公とその一族郎党百八名の御霊」が祀られていることを知りました。その説明書きには、師行が弟の政長とその子供である信政に残した言葉が記されていました。
※摂社(せっしゃ)…本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称。本社と末社との間に位し、本社の境内にあるものと境外にあるものとがある。
※末社(まっしゃ)…本社に付属する小さい神社。
「此度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう。しかし自分が戦場の露と消えても、悲しまず、節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しい。」
「自分達南部一族が多集に多くの土地を得られたのは顕家卿と帝の恩恵に浴することができたからこそで、たとえ帝の政に瑕疵があろうが、安易に節操を曲げてはならない。」
顕家と南部さんがともに祀られている阿倍野神社には、私も一度お参りしたいと思っています。
顕家軍の中では忠誠心に疑問が持たれた南部さんでしたが、このどんでん返しが松井先生の作品の醍醐味!とあらためて感じました。そして、甲斐出身の彼がなぜひどい奥州訛りなのかということや、時折見せる義侠心の謎が一気に解けました。
〔参考とした辞書・事典類は記事の中で示しています。〕
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今週は家庭の事情で執筆の時間を取ることが難しく、更新が遅れてしまいました。まだ少し調べてみたいことがあるので、来週も第167話をテーマに記してみたいと思います。