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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(103)稲村ケ崎の新田義貞、大風で大仏殿倒壊の場面を古典『太平記』、時行軍VS尊氏軍の合戦を鈴木由美氏の『中先代の乱』で確認してみる

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年4月1日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「おい海よ この刀あげるから浅くなれ」「ダメか…

 古典『太平記』でも屈指の名場面、新田義貞の鎌倉攻めクライマックスとも言える稲村ケ崎に義貞が剣を投げ入れるシーンも、松井先生の手にかかれば……佐々木道誉と娘・魅摩が暗躍のおかげという仰天種明かしの『逃げ上手の若君』第103話冒頭。
 『太平記』から少しだけ引用してみます。

 (義貞は)至心に祈念し、自らき給へる黄金作りの太刀を抜いて、海中に投げ給ひけり。真に龍神納受やし給ひけん、其の夜の月の入り方に、前々さきざき更に干る事も無かりける稲村崎、俄かに二十余町干上がつて、平沙渺々へいしゃびょうびょうたり
 ※平沙…たいらかな砂原。
 ※渺々…広く果てしのないさま。

 このシーン、理屈抜きでかっこいいんです。語りはひたすら義貞をアゲアゲしています。後に触れるつもりですが、第103話で描かれた大仏殿倒壊といい、説明不可能な出来事ほど物語世界では〝盛り〟気味の理由付けをしがちです。
 『太平記』の中では、後醍醐天皇と足利尊氏の対立関係が目立たないように、護良親王と新田義貞に対して、尊氏に対抗しうる人物としての役割が与えられ、キャラとストーリーが〝盛られて〟いる様子が伺えると言います。
 まあ、若くして足利の手によって非業の最期を遂げた護良親王には、〝盛り〟のできる要素がおおいにあるのがわかりますが、義貞については、『逃げ上手の若君』の松井先生の解釈が意外と当たっていて、行動が読めない分ヒーローに仕立て上げやすかったという可能性が高いのかもしれない……なんて考えるとおもしろいです。
 確かにそうなんです、義貞ってそういう雰囲気が否めないんですね。でも、なぜか憎めません。バカはバカでも融通のきかない馬鹿正直さや一途さ、情にもろいところなど、計算や裏切りが当たり前の時代にあっては、人間的な魅力にあふれる義貞とその一族は、時行の将来におおいに関わってくるはずなので、次の登場が楽しみです。

 ちなみに、一途といえば魅摩もやはりピュアな娘なのだと思いました。

 「友達だと思ってたのに!」「真っすぐで綺麗な武士だと思ってたのに!

 京での思い出が楽しかった分だけ、魅摩の血の涙は、物理攻撃以上に時行の心に突き刺さったと思います。その点、雫は感傷には流されることなどなく有能です(将の強みを生かすも殺すも部下次第であると改めて思います)。京での双六勝負では魅摩の神力が雫に勝っていると思いましたが、「加護」というか防御においては、雫の方が上なのでしょうか。
 神様・仏様は数多くの姿で存在していますが、それぞれ得意分野があったようです。魅摩と雫とでは、力を授かった神仏が異なっているのかもしれませんね(それぞれの性格や生い立ちに合った神仏が味方してくれている…?)。

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兵の士気が下がってしまったことを理解しつつも出撃の判断を下す名越高邦


 「タイミングの悪すぎる鎌倉大仏殿のこの倒壊を 『太平記』では祈祷による神仏の力だと推測している

 名越軍出立の前日、突然の大風の襲来で家々が壊れる中を、あわてて大仏殿に避難した「五百余人」が圧死したという悲劇が、『太平記』には書かれています。このことについて、鈴木由美氏の『中先代の乱』には、次のように記されてます。

 大仏殿の倒壊によって時行方の軍勢が五百余人圧死したというのは誇張かもしれないが、大風で大仏殿が被害を受けたこと自体は事実と考えられる。事実であるとすると、時行方は出陣の門出にこのような目に遭い、仏罰があたったかのように思えたのではないか。そうであれば、死傷した兵が仮に少数であったとしても心理的な打撃は大きかったであろう。

 これに続けて、「この大風が吹き始めた時刻を考えて、後で事情を聞いたところ、後醍醐天皇が関東征伐の祈禱として、奈良の西大寺において一日百の座を設けて大威徳明王法の祈禱を行わせていた」、まさにその最終日に大仏殿倒壊が起きたとしている毛利家本『太平記』の内容を示しています(ただし、「最終日というのは齟齬がある」と、鈴木氏は指摘しています。要するに、〝盛られて〟いるということです)。
 作品の中では、名越高邦が気丈にも「恐れるな兵の数は充分にいる」と言って出陣を決めています(こうしたセリフのひとつひとつにも、松井先生が記録や研究書で知り得た内容を細やかに反映しているのは、さすがだと思います)。しかしながら、『太平記』には「吉日」を選びなおして出立したとあるものの、多くの兵は「今度の合戦はかばかしからじ」という不安を抱えていたのです。

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 それでは、鈴木氏の『中先代の乱』の力を借りて、戦いの様子を順を追って見てみたいと思います。

 八月九日には遠江橋本(静岡県湖西市)で合戦、時行方は初戦から敗退します。十二日には遠江小夜中山さよのなかやま(静岡県掛川市)で合戦、時行方だった天野一族が「降人(降参した人)」となって名越の首を差し出し、今川頼国に戦功をあげさせたようなのです。
 今川頼国ですが、103話の最後のコマで〝牛〟がいますね。最初読んだ時は気づきませんでしたが、二度目で気づき、〝今度は牛かい!〟と思わず突っ込んでしまいました(〝馬〟の範満とは兄弟(範満が兄)のようですが…)。そして、「天野」は第98話で、北条泰家が「三浦 天野 伊東 元庇番にいた武将もおる」と言う中で、名前があげられていました。ーーこのように、〝寝返り〟が戦いの中で起きたのですが、これに止まりませんでした。
 十四日には駿河国府(静岡県静岡市葵区)で合戦、「名越次郎が自害」とあり、これは『逃げ上手の若君』だと、高邦が連れていた弟ではないかと思いました。さらに、北条一族の塩田(やはり第98話で名前が登場)や諏訪の主要人物も生け捕りにされているということです。ここより東に退き、高橋や清見関(いずれも静岡市清水区)で戦うも敗れ、時行方からやはり降人が複数出ています。

 ーー出立より不安を抱えた兵たち、そして連敗とあれば、大仏殿倒壊の心理的影響がなかったとは言えないとだろうと思ってしまいます。かくして、十七日は箱根(神奈川県足柄下郡箱根町)での、大将・三浦時明戦となります。

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 高邦の首を掲げた今川頼国と高師直・師泰兄弟ももちろん怖いのですが、尊氏は一緒なのか、それを考えるのも怖いです。また、裏切りの「やましさ」に終止符を打つべく井出沢で足利直義を裏切り、今度の戦いでは嫡男まで預けた三浦時明のことを思うと、この状況って…と思ってしまいます。
 今回は、ここまでにしたいと思います。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。〕


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