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【鳥取寺社縁起シリーズ】「因幡堂縁起絵巻」(2)

 【鳥取寺社縁起シリーズ】第二弾として、「因幡堂縁起絵巻」詞書部分の注釈・現代語訳をnoteで連載いたします(月1回予定)。

  〔冒頭の写真は、鳥取県立博物館『はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』の表紙(「因幡堂縁起絵巻」の一場面)です。〕


■寺社縁起本文・注釈・現代語訳

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 第2回より本文に入っていきます。
 本文(翻刻)は、『企画展 はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』〔鳥取県立博物館/2008年10月4日〕の巻末「鳥取県関係寺社縁起史料集」のものを使用しています。

 ※「因幡堂縁起絵巻」の概要は第1回をご覧ください。

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【 第一段(12行目まで) 】

〈本文(翻刻)〉
夫天竺舎衛國*祇園精舎*釋尊*在
世の旧跡須達*建立一千七百一十五間*
の堂舎誠無比類霊場也然経二百余歳
回禄*の間*祇施太子*如元建立以後経五百
年亦焼失其後旃育迦王*建立之相當
吾朝孝霊天皇*御宇彼精舎又百余
廻の後為盗人炎上畢其後経七十餘年
師子迦王*造立之相當日本開化天皇*
御宇然現魔賊壊彼祇園精舎恣慾
殺人庭時四天王*沙竭羅龍王*為忿怒以
盤石*押殺壊精舎之悪徒相當崇神天皇*
御宇彿閣令荒癈人力難及事経九十年…

〈注釈(語の意味)〉
*舎衛國(しゃえいこく)=舎衛城〔シュラ―バスティー〕…北インドの古代都市。漢訳仏典の舎衛城。ブッダ時代(前6~5世紀)にコーサラ国の都としてプラセーナジット王(波斯匿〈はしのく〉)のもとに栄えていたが、コーサラ国の滅亡とともに繁栄を失った。アナータピンディカ長者(給孤独長者)がブッダに寄進した祇園精舎はここにあった。この都市の遺跡の一部が、現在のウッタルプラディーシュ州のサヘート・マヘートで発見されている。〔ブリタニカ国際大百科事典〕
*祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)…須達(しゅだつ)長者が中インドのコーサラ国舎衛城の南、祇園に釈尊およびその弟子のために建てた僧房。釈尊の説法の多くがここでなされ、竹林精舎と共に二大精舎という。祇陀林。逝多(せいた)林。
 ※祇園精舎の「祇」について、本文「祗」を「祇」に改めた。
*釋尊(しゃくそん)=釈尊…(釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)の略)釈迦牟尼の尊称。
*須達(しゅだつ・すだつ)…(善施の意)釈尊当時の中インド舎衛(しゃえ)城の長者。常に父なきもの(孤)、老いて子なきもの(独)を憐み、よく衣食を給与したので給孤独(きっこどく)と称せられた。釈尊に帰依し、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を献じた。須達多。スダッタ。
*間…家の柱と柱のあいだを単位にして、家やへやの大きさをあらわすことば。〔漢字源〕
*回禄(かいろく)…火の神。転じて、火事で焼けること。火事。
*間(あいだ)…(接続詞的に)…ゆえ。…から。…ので。
*祇施太子…祇陀太子(ぎだたいし)? 古代中インド、コーサラ国波斯匿(はしのく)王の王子。逝多林の地主。須達(しゅだつ)長者と共に釈尊のために祇園精舎を建てた。誓多。逝多。
*旃育迦王(せんいくかおう)?
*孝霊天皇(こうれいてんのう)…記紀伝承上の天皇。孝案天皇の第一皇子。名は大日本根子彦太瓊(おおやまねこひこふとに)。
*師子迦王(ししかおう)?
*開化天皇(かいかてんのう)…記紀伝承上の天皇。孝元天皇の第二皇子。名は稚日本根子彦大日日(わかやまとねこひこおおひび)。
*四天王…四方を守る護法神。須弥山(しゅみせん)の中腹にある四王天の主。持国天(東方)・増長天(南方)・広目天(西方)・多聞天(北方)の称。像容は、甲冑をつけた忿怒の武将形で邪鬼を踏み、須弥壇の四方に安置される。四大天王。四王。
*沙竭羅龍王(しゃからりゅうおう・さからりゅうおう)=娑竭羅龍王・娑伽羅龍王…八大竜王の一つ。法華経の会座(えざ)に列したという護法の竜神。請雨法の本尊。
*盤石(ばんじゃく・ばんせき)…大きな岩。いわお。
*崇神天皇(すじんてんのう)…記紀伝承上の天皇。開化天皇の第二皇子。名は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)。
 ※特に記載がない場合は『広辞苑』による。

〈書き下し文〉
夫れ天竺の舎衛國の祇園精舎は釋尊在
世の旧跡にして須達建立す。一千七百一十五間
の堂舎誠に比類無き霊場なり。然るに二百余歳を経て
回禄の間、祇施太子元の如く建立す。以後五百
年を経て亦焼失す。其の後、旃育迦王之を建立す。相當に
吾が朝孝霊天皇御宇、彼の精舎又百余
廻の後、盗人の為に炎上し畢んぬ。其の後、七十餘年を経て
師子迦王之を造立す。相當に日本開化天皇
御宇、然して魔賊現れ彼の祇園精舎を壊し恣に
人を殺さん庭にせんと慾する時、四天王・沙竭羅龍王忿怒を為し、
盤石を以て精舎を壊するの悪徒を押殺す。相當に崇神天皇
御宇彿閣荒癈せしめ人力及び難し。事経ること九十年…

〈現代語訳〉
そもそも、天竺の舎衛國の祇園精舎は、釋尊が在世の時の旧跡で、須達が建立した。一千七百一十五間にもなる建物は、他に比べる物のない霊場である。それなのに、二百年余り経って火事で焼けたために、祇施太子が再建した。以後、五百年が経って再び焼失した。その後、旃育迦王がこれを再建した。我が朝(日本)では孝霊天皇の御代になるが、祇園精舎は(先の焼失から)また百年余り後に、盗人の仕業で炎上してしまった。その後、七十年余り経って師子迦王がこれを再建した。そうして日本では開化天皇の御代になるが、仏道に害をなす悪者らが現れて祇園精舎を破壊し、(さらには)身勝手に殺人を犯そうとした時、四天王と沙竭羅龍王が激しい怒りを発し、大きな岩を動かして精舎を破壊する悪者らを殺害した。崇神天皇の御代になるが、祇園精舎は荒れ放題となったまま人の力ではもはやどうにもならなかった。そうして九十年が過ぎ…
                   〔「因幡堂縁起絵巻」(2)おわり〕


 第二回の掲載にあたり、「あしのすけラボ工房」さんの文章校正・文字校正サービスを利用しました。迅速かつ的確な作業ありがとうございました。


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