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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(92)「戦が弱い」は噂に過ぎなかった!? 大胆に解釈された武蔵国での足利直義の井出沢と小山秀朝の国府戦…そして「正義」はいずれにあるのか?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年1月1日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


足利直義は戦下手というのが南北朝界隈では定説と化しているが…

 「戦が弱い」「凡将」だという噂を口にする諏訪神党三大将たちが思い描く足利直義の頭にう〇こ!?
 女性ファンは〝やめて~〟っと思われたかもしれませんが、南北朝ファンとしては〝あり…〟と思った『逃げ上手の若君』第92話でした。一方で、最新の説も取り込んでのストーリー展開と、定説を覆す足利直義のキャラクター作りをされている松井先生は、彼を高く評価しているのだなと感じました。
 余談ですが、直義の顔つきって、『暗殺教室』で人気だった烏間惟臣を彷彿とさせますね。

 今回は、新展開に伴う地名や人名も登場していますので、それらをまず順に拾っていきたいと思います。

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 「武蔵国 井出沢」とは、どのような地なのでしょうか。偵察の兵や諏訪盛高のセリフからは、戦いに適してはいないようです。

井出の沢(いでのさわ)
[現]町田市本町田
 本町田ほんまちだのうち、鎌倉街道西側の底湿地。豊富な清水は恩田おんだ川の水源地の一つで、鎌倉末期の明空の「宴曲抄」に「井手の沢」とあり、鎌倉街道の格好の休憩地であった。地内より文保二年(一三一八)一〇月銘の阿弥陀三尊種子板碑が出土している。建武二年(一三三五)七月北条時行が信濃国で挙兵、この中先代の乱では武蔵国女影おなかげ原(現埼玉県日高市)・府中で敗北を喫した足利軍は足利直義自ら出陣し、「井出沢辺ニ於テ終日合戦」し(梅松論)、味方に多数の戦死者を出し、東海道を三河国まで敗走した。甲斐身延山久遠くおん寺一一世貫主行学院日朝の書状(本覚寺文書)に「武州出沢」とある。現在、菅原神社本殿の傍らに記念碑が建立されている。
〔日本歴史地名大系〕

 町田市のホームページにも、記念碑の写真と簡単な説明が掲載されていました。

 直義の動きについては、鈴木由美氏の『中先代の乱』を参照して、本シリーズの第83回でも紹介しました。

 そこで名前が出てきたものの、〝逃げ若ではもう登場しないのかな…〟と思っていた|小山秀朝《おやまひでとも》が今回、吉良と一緒にいました。
 「小手指原で合戦、今川範満討死→武蔵国府で合戦、下野の武士小山秀朝が自害、七月二十二日に武蔵井出沢で鎌倉から出陣した足利直義と合戦」(『中先代の乱』)という流れが、作品中ではまたもや大胆に解釈されているのようです。また、これまでこのシリーズで何度か触れてきましたが、秀朝は関東庇番ではないので、「足利派武将」という肩書があてられていたのにも納得!でした。
 いや、それよりも、直義が「鎌倉を出てきた事」というのは彼がう〇こである証拠ではなく、むしろ「優れた戦略眼」ととらえ、さらには、井出沢のような場所を決戦の地に選んだことを、「単騎で護衛もなく 平然と川を渡ってきた」という展開にもってきて物語を盛り上げる松井先生……これ、大河ドラマにしたら三谷幸喜氏の『鎌倉殿の13人』を超えるでしょ!?と驚嘆しきりでした。

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 古典『太平記』を読んでいても、直義の言動は理が通っています。しかし、時にそれが行き過ぎている、あるいは何かが欠けていると感じることがあり、直義を好意的に評する傾向のある『太平記』の語り手も、その時ばかりは激しく非難をしているのに思い至ります。

 「良く通る声 詭弁と偏見と正論を交えて北条軍すら黙らせた

 これは、雫と諏訪頼重の父娘が直義に抱いた印象なのでしょうか。頭脳派の二人が息を飲んで成り行きを見守るしかないとは、直義はやはり恐ろしい敵です。
 諏訪氏だって、戦は強くはないだろうということを私は考えています。諏訪氏は神官家ですし、主として宗教的な側面と政務で北条氏を支え、信濃においては祭祀に基づいた領内経営をしていた一族ですから……。それでも新政権と足利氏に挑んだのは、北条氏への恩義であり、戦いに関してもパワーに頼らずに準備に準備を重ねたという解釈を松井先生もしていらっしゃるのではないかと推測します。
 それができたのは、もしかしたら「御射山祭」で各家の戦力を観察していたからということなのかもしれませんね。頼重は、石塔範家、渋川義季、今川範満のことを覚えていて、「そなたが彼らを覚醒させ纏め上げたのだ」と分析して、直義を評価していることからそんなことを考えてもみました。

 ところで、直義の「良く通る声 詭弁と偏見と正論を交えて」というのは気になるところです。現代でも「論破」が流行っていますね。学校で子どもたちが「論破」を売りにしている(?)有名人の真似をするので、学級崩壊していると聞いたことがあります。恐ろしい世の中です。
 実は、私も論を組み立てることが大好きです。しかし、最初から、戦っても勝ち目はないだろうと見込む人たちが一定数います。ーーそれは、品のない人たちです(笑)。
 彼らは、人の話を聞いていません。論点を平気でずらします。そして、論の中心が悪意や欲に満ち、自分のこと(自分が勝つこと、得すること)しか考えていません。
 そういえば、時行の回想シーンで「尊氏の妻の父」として「赤橋様」こと「赤橋守時」という名前が出てきました。
 「赤橋」というのは北条氏の一族のひとつで、「鶴岡八幡宮の社殿の前、放生池に架っていた橋」(角川古語大辞典)の近くに邸宅があったことに由来するそうです。
 守時は最後の執権で、『太平記』にもその最期が語られています。鎌倉が攻められて敗色が濃くなった際に、これで北条が滅びるとは思わないから本来であれば逃げ延びるべきだと述べています(これは、物語とはいえ、北条泰家と同じ考えですね…)。しかし、彼は妹が尊氏に嫁いでいるために、時行の父・高時や一族の者は自分に対して心に隔たりが生じているだろうとして、「この陣の闘ひ急にして、兵皆疲れたり。我何の面目めんぼくかあつて、堅めたる陣を引いて、しかも嫌疑のうちにしばらくめいを惜しむべき」として腹を切って果てます。
 いざ北条再興となった際に、足利氏に嫁いだ妹と、その縁続きとなった自分が、結束を固めるための障害になりかねないとしているのでしょう。さらに、防戦のために力を使い切っている兵に対して、そんな自分が逃れるために陣を解いて自分を守れとは言えないというのです。
 守時は、極限状態においてもなお、北条本家と、自分の命を受けて戦った兵の気持ちとに、差をつけていないのです。それと比較すれば、足利本家のために一門の若者たちをコマとして使い捨てる直義は、品がないどころではないですね……。

 「では聞こう足利直義! お前達の一体どこに正義がある!?

 時行に勝機があるとすれば、人としての当たり前の思いを貫き通すことではないかと思うのです。時行の放つ「正義」という語の強さは、そこにあるのではないでしょうか。

〔鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕

 

 いつも記事を読んでくださっている皆さま、ありがとうございます。興味がございましたら、「逃げ若を撫でる会」においでください! 次回は2023年1月12日(木)開催です。

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