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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(187)現世のことはすべて弟に丸投げ!? 尊氏側の婆娑羅大名たちの想像を絶する狼藉でむしろ直義のメンタルが心配……
南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2025年1月26日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕
「うおおおおおお帝おおおおお!! 後醍醐の帝おぉぉ!」
『逃げ上手の若君』第187話のはじまりは、1339年の「北朝朝廷」内から泣き叫ぶ声がして、御所の外を歩いていた人までびっくりです。
泣いていたのは……足利尊氏。いろいろな意味でこの尊氏のリアクションには読者の私もびっくりです。読者と同様に、居並ぶ彼の郎党と実弟の直義までドン引きの中、唯一平然としているのが完璧執事・高師直です。
「全ての政務を七日間中止せよ! 皆で帝を弔うのだ!」と宣言した尊氏に対して、「では将軍 今夜の予定の田楽見物も中止にしますか?」と、師直は耳打ちしています。泣き続けながらも一瞬の間があって、「それは行く」と小声で返答する尊氏。ーーさすが無類の田楽好き、大泣きも手紙も演技かい!と、「おまえが」の「四文字」を飲み込んでいる皆さんと一緒にツッコミを入れておきたいと思います。
さて、私の実力では「帝へのお別れの言葉」を記した尊氏の文の原文を見つかられなかったのですが、「帝のために」建立した「立派な寺」はわかりました。ーー京都の天龍寺ですね。
もちろん天龍寺の公式の説明には書かれていませんが、「厚遇を忘れて謀反で天下を奪った上 この時点で皇子を三人も殺した男」という自覚のある尊氏が、後醍醐天皇の怨念を恐れ、それを鎮めるために建てた寺だとも言われているそうです。
『逃げ上手の若君』で描かれる尊氏のメンタルは常に不可解ですが、記録類に残る尊氏の言動を見る限りにおいても、彼のメンタルの危うさは多くの人が様々に指摘するところです。有名なのは、建武三年八月十七日の日付が記された尊氏の「願文」です。
「この世は夢の如くに候〔=この世は夢のようなものです〕」で始まるこの書状は、〝自分は今世での幸せは諦め、出家して来世を祈ります。現世の幸せは弟の直義にお与えになって、彼をお守りください〟と、清水の観音へ願ったものです。この文面からは、中先代の乱の後に後醍醐天皇を裏切った直後から、尊氏は「政務の大半」どころか、現世のことはすべて直義に「丸投げ」していたという見方もできます。
古典『太平記』でも実直さを評価されている直義は、手堅く実務をこなしていったとされています。一方で、第187話であるように、尊氏が高く評価する武将たちの婆娑羅なふるまいに怒り、悩んでいたのではないかと想像されます。……個人的には、直義のメンタルヘルスの方が心配です。
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さて、ストーリーは、「1340年 京・妙法院」の佐々木道誉による妙法院焼き討ち、「1342年 京」の土岐頼遠による光厳上皇に対する狼藉とに続きます。これらは、南北朝時代の婆娑羅な事件として真っ先にとり上げられる大事件です。
道誉のエピソードについて、このシリーズではこれまでとりあげていなかったようです。日本古典文学全集の『太平記』の現代語訳より引用してみます。
道誉は最近時勢にあって栄え、その時めきぶりに肩を並べる人はいない。彼の配下たちは、ばさらな風体や贅を凝らした服装で身を飾り、遊興の限りを尽くしたが、現在の流行だからと、東山や西岡で小鷹狩をして、夕方になって帰ってきた。その帰途に妙法院門跡の御所の前を通り過ぎようとして、後からついて来た家来たちが、御所の南庭の紅葉の枝を折り取った。
ちょうどその時、門跡はお部屋の御簾を掲げて秋の日の景色をご覧になっていて、「霜葉は二月の花よりも紅なり(霜で赤くなった木の葉は仲春の花よりもいっそう赤い)」とのどかに詩を吟じて楽しんでおられたが、太い紅葉の下枝を身分の低そうな家来たちが、風流も何も理解せずに引き折っているのを見つけられ、「誰かいないか、あの男をやめさせなさい」とおっしゃった。御所の事務官が門跡のご命令を受けて、「いったい何者が、御所の中の紅葉を折っているのか。外へ出なさい」と叱りつけたけれども、相手はまったく問題にしなかった。あげくのはてに、「御所だからといって、どうなのだ。笑止な言いぐさだ」などとあざけって、ますます大きな下枝を引き折った。こうした時に、門跡のご門徒である比叡山の法師たちが寝泊りして御所にいたのであるが、この様子を見て、「憎い連中の乱暴なふるまいだ。さあ、目にもの見せてくれよう」と、紅葉の枝を奪い取り、さんざん打ちこらしめて、彼らを門から外へ追い出した。
道誉はこの出来事を聞いて、「どんな門跡でいらっしゃるにせよ、最近私の身内の者に対して、そうしたふるまいができる人はいないはずだ」と怒って、すぐさま押し寄せて、妙法院に放火したのであった。折しも風が激しく吹きかけたので、建仁寺の輪蔵・開山塔・瑞光庵に至るまで、同時に焼失してしまったのは、あきれはてたことであった。門跡はお勤めの最中であったが、いちはやくお気がつかれ、後ろの小門からはだしで逃げ出して、光堂にお入りになられた。お弟子の若い親王は何も知らずにいつものお部屋にいらっしゃったが、火事にびっくりなさって、逃げる方向がわからず茫然としていらしたところを、道誉の長男源三判官秀綱が走りかかり、しゃにむに刺し殺し奉った。あきれはてたことに、宮様などのように身分の貴いお方にこのようなことをしたせいで、神仏のご加護から見放されたことも、不思議な出来事であった。
これほどのひどさなので、そのほかの出世・坊官・稚児・侍法師などは、逃げ場を失って煙に巻かれて倒れ、手・膝をすり合わせて命乞いをしたのに、「そうは言わせないぞ」と言って、どこまでも彼らを追いつめて斬り殺し、打ち倒した。
……まさにカオスです。これだけでもすでにとんでもないことなのですが、続きがまだあります。この後、比叡山延暦寺からの激しい抗議が起こり、尊氏も直義も道誉の処分をなあなあにすることができず、東国への流罪を言い渡します。しかしながら、道誉はものすごい数の郎党とそろいの猿皮のファッションで決めて(猿は比叡山延暦寺の聖獣です)、道々宴会騒ぎでだらだらと進んでいきます。そして、途中でしれっと京都に引き返しています。
続いて、道誉よりもはるかにヤバすぎた頼遠の狼藉については、すでにこのシリーズでも取り上げています。
かつて青野原で頼遠を見逃した北畠顕家の予言は当たり、行く末を案じた小笠原貞宗の思いも空しくなってしまいました。
私としては、推しのモブキャラ〝下がり眉〟くんがこの歴史的瞬間に立ち会っていたのに少し驚きました(笑)。そして、彼がこれまで五郎坊たちを絶賛していたのは、「土岐様の凄さ」がわからなかったゆえのことだったと知って苦笑しました。「残弾」として生きながらえ、主君の価値も理解できたのに、こんなところで巻き添えで処刑だったらかわいそうです。.……それはそれで、彼らしくはあるのでしょうが、生きていてほしいです。
それから、光厳上皇がなかなかの知的なイケメンキャラで、松井先生の高評価ぶりが絵柄に反映されてると思いました。光厳上皇は、若き日には幕府滅亡の際の戦いで京都から連れ出され、敵の追撃で着物を矢で射ぬかれたり、北条一族の集団自害を目にして失神してしまったりという過酷な体験をしています。天皇でありながらこんな目にばかり遭うとは、まったく気の毒でしかありません。
しかしながら、乱世をたくましく生き延びた光厳上皇は、『太平記』において、移り行く時代の目撃者、かつ、ひとつの輝ける生命として、物語を支える重要な役割を与えられています。南北朝時代という乱世が作り上げた、後醍醐天皇とは違うタイプのタフな天皇であると言えるでしょう。
なお、直義が頼遠を討伐した「槍衾」についても、先にこのシリーズの中で紹介しています。南朝方の九州・菊池一族が、箱根・竹ノ下の戦いで足利方を山の上に追い上げたとされる槍による集団戦法で、「菊池千本槍」の名称で有名です。
土岐頼遠の狼藉を知った直義の怒り様は尋常ではなく、数々の戦功のある頼遠は助けたいと考えていたらしい兄の尊氏との温度差を感じます(『逃げ上手の若君』ではどうでもよい感じですが……)。
「異国にもいまだ同様の例を聞いたことがない。してや我が国においては、これまでに見たことも聞いたこともない非常識な出来事だ。その罪を考えると、三族の刑を行ってもまだ足らない。五刑に処しても十分ではあるまい。直ちにその連中を呼び出して、車裂にするのがよいか、それとも醢にするのが適当か」という直義の発言が、『太平記』に記されています。刑の内容が凄惨で、直義が相当に怒りを覚えていることが伺えます……。
※三族の刑…父母・兄弟・妻子まで処刑すること。
※五刑…罪人に対する五つの刑罰。古代中国では墨(いれずみ)、(はなきり)、(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。隋・唐の時代には、笞(ち=むちで打つこと)、杖(じょう=つえで打つこと)、徒(ず=懲役)、流(る=遠方へ追放すること)、死(死刑)の五つをいう。日本では、大宝・養老律以後この隋・唐の方式がとられ、近世まで行なわれていた。
※車裂(くるまざき)…中世に行なわれたという刑罰の一つ。二両の車に片足ずつを縛りつけ、車をそれぞれ反対方向に走らせて罪人の肢体を引き裂くもの。
※醢(ひしお)…処刑後の死体を塩づけにする刑。古く、中国で行なわれた極刑。
頼遠は急ぎ本国に戻り、朝廷や幕府の尊崇も厚く直義が師事する高僧の夢窓疎石を頼りましたが、直義は許しませんでした。そして、謀反(『太平記』でも言及されています)という選択をしたものの直義派によって処罰されたというのが、第187話の展開なのかもしれません。
直義は夢想疎石に対して次のように答えたと、『太平記』は語ります。
夢窓国師は近年天下に知られた高徳の僧で、朝廷・幕府のあがめ敬うことは比類なかったので、ともかくも直義に期待しておっしゃったけれども、左兵衛督直義は、「これほどの大犯罪の刑を甘く、そのままにしておくならば、今後の悪い先例となるでしょう。とはいっても、国師のお口添えも無視できませんので、やむなく頼遠その者は死刑に処して、子孫は所領安堵を保証いたしましょう」と返事をなされて、頼遠の身柄は侍所の細川陸奥守顕氏に引き渡され、三条大宮でついに首を刎ねられたのであった。
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「この事件を決定打に 足利の亀裂は天下を揺るがす内乱へと発展していく」
「政務の大半を丸投げ」しているのは兄・尊氏であって(対立の中心でへらへら笑っている顔がまたムカつく)、直義が「弟ォ!」呼ばわりされて恨みを買うのは筋違いの気もするのですが……。また、直義が「帝や朝廷」を「大事」にする点については、北条政権が滅びた失策の一つでもあったと婆娑羅側は考えています。
こうした問題に加え、時行が鎌倉で出会った〝あの少年〟もそろそろ再登場して、両者の亀裂をますます深めることになります。
その前に、若様と逃若党ガールズのエピソードなんですね(夏は入ってないのかな……?)。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕
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1月29日(水) 午後10:00〜午後10:45よりNHKの『歴史探偵』にて、足利尊氏登場! 松井優征先生がコメントなさるという情報もあります。
足利尊氏 南北朝兄弟げんか
初回放送日:2025年1月29日
鎌倉幕府を倒した足利尊氏。歴史上のヒーローとはかけ離れた一面を持っていた。兄を支えたのが弟の直義。やがて2人は、南北朝の騒乱を激化させる兄弟げんかを引き起こす。
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