2013年 夏の学会・研究会のまとめ⑫〔廃刊メルマガ記事より〕(2014年5月18日)
現在、昨年夏の学会・研究会のまとめをしています。第12回は、駿台研究所主催で駿台市谷校舎にて実施された〈2013夏期教育セミナー〉の第2弾です。
白鳥永興先生 「古文をめぐっていろいろ考えてみる―室城先生とともに―」
*「まし」の訳出に関する大きな誤解
今は我いづちに行かまし山にても世の憂きことはなほも絶えぬは
「戒仙(かいせう)」という人が、出家してもなお実家に洗濯物などをお願いしていたところ、とうとう母親に拒絶されて詠んだという歌が、上に示したものです(『大和物語』第二十七段)。
この課題には、選択式の問題がついていました。
課題 傍線部「今はいづち行かまし」とあるが、戒仙はどのような気持ちでいるのか。次のなかから選べ。
ア 戒仙は、どこに行こうか迷っている。
イ 戒仙は、どこかに行こうと考えている。
ウ 戒仙は、どこへ行ったらいいのか悩んでいる。
エ 戒仙は、どこにもいきたくないと甘えている。
オ 戒仙は、どこにも行く所がないと嘆いている。
〝「まし」については、「反実仮想」と「ためらい」などと教わっているのではないか、それが混乱のもとになっている〟と室城先生は指摘されます。
過去のこと、現在のこと、未来のこといずれにおいても、「まし」は「事実に対する仮想」を意味しています。ゆえに、過去のことなら「(もし)~したならば~する・だ」、現在のことであれば「(もし)~するならば~する・だ」という訳出
になるわけです。よって、未来のことであれば、できないことが前提でこれから何かをしようという判断や認識について訳出する必要があります。
先の戒仙の歌に戻ると、〝俗世間で憂きこと(洗濯物のことで親から怒られた)があったのに山(俗世間から逃げた先)でもまだあったという気持ち〟を踏まえ、〝これからどこに行けばいいのだ。どこにも行けないじゃないか(「いづち」の訳出にも注意)〟ということになります。答えは「オ」ですね。
「時制」というのは、本来日本語にはない概念ですが、まず最初にそれを日本語の助動詞の概念に当てはめようとするために、助動詞が個々に持つ核となる概念を見失ってしまい、古典文法とその現代語訳が難しく、つまらないものになっているのではないかと思いました。