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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(174)「天下」と「神力」に宿る〝キモい〟意志 VS〝清い〟意志!? ……ほか、『太平記』における「激烈な嵐」の描写や時行の同船者や行先などを確認してみる

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年10月5日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 前回の『逃げ上手の若君』第173話で、伊勢における魅摩登場をかねてより予感していたものの、まるで整形美人のようになっている彼女の「神力過剰注入」を私は疑っていました。

 しかしながら、魅摩の神力は行き場を失くした神仏たちに対する魅摩の優しさゆえに身に付いたものだった(……と、私は解釈しています。第51話「双六1335」参照)ので、源氏の氏神の八幡神だとかそのあたりから正統にもたらされた(追加された)のであろうなどと勝手に思い込んでいました。
 ーーイキっていても十代前半の少女である魅摩と同じくらいに、私の考えは甘かった。甘すぎました。高師直とともに佐々木道誉は、尊氏が〝人外〟であることをよくよく理解していて、道誉に至ってはそれを楽しんでいる感すらあったのをようやく思い出しました。魅摩の個性を奪うほどの神力過剰注入は、尊氏の「涎」によって、労せずして可能だったわけです(まじでサイテー)。

 「天下人 キモい!」(プクウウウウ

 うん、キモい(涎溜めるな!)。魅摩が正しい。
 尊氏の変顔に毎回ウケまくっている妹でも、今回の尊氏に対しては〝尊氏ファンが怒らないか心配〟と言うほどでした(笑)。尊氏のファンの方に感想を聞いてみたいです。
 とはいえ、私個人としては、魅摩を尊氏に差し出した道誉の仕打ちの方がショックでした。道誉に対して私は、〝身内思い、仲間思い〟というイメージを持っていました。郎党が恥をかかされたからというので、速攻で仕返しをして京都を火の海にしてしまったくらいですから……
 『逃げ上手の若君』においては、魅摩が父の道誉を慕っていたからなおさらです。ただ一方で、娘は父親の財産であるという考え方があることを、親子関係の心理学などを学んでいる方から以前さらっと聞かされて、確かにそうなんだよなと思ったことを思い出しもしました。婆娑羅と言われた道誉でも、我が子たちの間に男と女とで差をつけていたというのであれば、「軍功第一 これで一生贅沢三昧さ」という目的のために娘を「使い捨て兵器」として尊氏に差し出したと言うのは、妙な納得感というかリアリティがあります。

(高師直に続き、佐々木道誉にもがっかりな私……娘と天下を天秤にかけるなんて
婆娑羅でも何でもなく当時の常識にすっぽりはまりきってはいないか?)

 「天下が絡むと実の親でもキモくなる!」「考える事が遠すぎてついてけない!

 純情な魅摩が、親とその主君の「天下」のための食い物に自分がされたとわかった時、彼らのために「」とみなして戦ってきた時行に心の中で助けを求めたことに、私はひどく胸が痛みました。ーー「天下」を取るとはどういうことであるのか、諏訪頼重や北畠顕家と尊氏たちとの決定的な違いが何かについて、深く考えさせられるもするのです。

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 「確実に全軍を殺せるんだな
 「はい 南朝の皇子・重臣共から… 《《下っ端の幼子》》までことごとく

 上記は、尊氏と道誉のやり取りです。前回は、北畠親房とその子・顕信および武将たちの布陣のみが示されていましたが、「南朝の皇子」も船団には加わっていました。ここで、鈴木由美先生の『中先代の乱』に久々登場していただこうと思います。

 延元三年五月二十二日、顕家は和泉堺浦(大阪府堺市)で討死した。二十一歳であった。この戦いに時行は参加していなかったか、参加していても逃れたようである。
 同年九月、義良親王、北畠親房らの一行は、船で伊勢大湊(三重県伊勢市)を出港した。義良親王を陸奥へ、宗良親王を遠江へといったように、皇子たちを各地方に派遣し南朝の根拠地を築くためであった。『太平記』によると、この一行の中に時行もいた。
 だが、船団は暴風に遭う。

 『太平記』の時行の記述ですが、「新田左兵衛佐さひょうえのすけ義興、相模次郎時行、宇都宮加賀寿丸かがじゅまる三人をば「とう八ヵ国を打ち平らげて、宮に力を添え奉るべし」とて、武蔵、上野こうずけの間へぞ下されける。」とあります。
 ※宇都宮加賀寿丸…氏綱。公綱の子。
 ※東八ヵ国…関東八か国。

 義良(のりよし)親王はのちの後村上天皇、「ポンコツ」顔の「四条様」が顕家に対して暴言を吐いた時にさりげなく制裁を加えた英明な皇子ですね(第152話参照)。『太平記』では、「春日少将顕信卿を扶弼ふひつ〔=補佐の臣〕とし、結城道忠どうちゅう衛府えふ〔=結城宗広を護衛の武臣〕として奥州に下し奉らる」とあるので、時行たちと東に向かった皇子は宗良(むねよし)親王となりますが、宗良親王は、本シリーズの中でもこれまで触れてこなかったと思います。

宗良親王(むねよししんのう)
 南北朝時代の歌人。後醍醐天皇の皇子。「むねなが」とも読む。母は二条為世の女為子。はじめ妙法院に入室、のち尊澄法親王と称し、ついで天台座主となる。元弘の変が始まると、異母兄護良親王とともに討幕運動に参画し、敗れて讚岐国(香川県)に流される。建武中興となり帰洛したが、足利尊氏が叛して乱世となるや、還俗して宗良と改名し、その後南朝のため信濃国(長野県)を中心に東国各地に転戦した。弘和元年(一三八一)、後醍醐・後村上・長慶天皇三代の、南朝の君臣の歌を集めて「新葉和歌集」を撰した。また、親王自身の歌集に「李花集」がある。応長元年(一三一一)生まれ。
〔日本国語大辞典〕

 元「天台座主」であり、「異母兄護良親王とともに討幕運動に参画し」といった記載を見ると〝お、護良親王顔負けの武闘派か!〟と思われるかもしれませんが、上記の説明をよくよく見直してみてください。冒頭がいきなり「南北朝時代の歌人」で、「母は二条為世の娘為子」とあります。有名な歌人の系統の血を引く女性を母とした宗良親王は、和歌集の編纂やたくさんの和歌を残していることで有名です。
 私が所属している南北朝時代を楽しむ会の代表の推しメンがこの宗良親王のため(渋すぎですよね……)、代表から常々聞かされている話によると、とても繊細で戦うのは嫌だと泣いてしまうような方だったというそうです。現代だったら、後醍醐天皇は〝毒親〟と言われてしまいそうですが、それでも宗良はたくましく時代を生き抜いていますから、やはり後醍醐天皇の子だと思わずにはいられません。
 なお、お気づきの方もあると思いますが、「南朝のため信濃国(長野県)を中心に東国各地に転戦した」と説明にあるとおり、時行にとって今後キーパーソンとして登場するかもしれません(ただ、信濃では時行と宗良親王の伝承が混ざっているのではないかといった指摘を、以前に鈴木由美先生がされていたりもします)。

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 陸地くがちは皆敵強くして通り難しとて、このせいみな伊勢国鳥羽の津に集つて、船を揃へ、順風を待つ。八月十五日の宵より、風止み、雲収まつて、海上ことしずかなりければ、舟人ふなうどともづなを解いて、万里の雲に帆を飛ばす。兵船ひょうせん五十余艘、宮の御座船ござぶねを中に立てて、天龍灘を過ぎける時に、海風にわかに吹き荒れて、逆浪さかなみ天を巻き翻す。或いは梶をかき折られて、廻流に漂ふ船もあり。或いはほばしらを吹き折られて、片帆かたほにて行く船もあり。
 ※万里の雲に帆を飛ばす…遥か遠方の東国へ向けて空翔るように帆をあげた。
 ※天龍灘…遠州灘。天竜川の河口の沖合。
 ※逆浪天を巻き翻す…逆巻く波は天にも届く激しさ。
 ※廻流…渦を巻く潮流。
 ※片帆…毀れていない帆の片方。

 『太平記』における、時行たちを襲った「激烈な嵐」の描写を引用しました。
 都市伝説で〝気象兵器〟の存在が囁かれていたりもしますが、自然現象での破壊力は想像を絶するものがあります。出現や進路が予測不能(きまぐれである)という点も恐怖です。ーーまさに〝神業〟です。
 ところが、その体をよそおって気象を自在に操られたりしたら(気象の出現や進路がきまぐれではなく)、邪悪な意志を持つ人が下らない目的をもってそれを用い、他者を傷付けたとしたらどうでしょうか。
 雫もまた、自分の意志によって「神力」を使おうとしています。しかしながら、魅摩の「おなか一杯」に注がれた「尊氏の神力」が持つ意志と、雫の「神力」にこめられた意志とでは、個人的な煩いから解放されるため」と「兄さまも全軍も海に沈むのを回避するためという、あまりにも大きな違いが横たわります。
 「私の存在の全てを使って」という雫の選択は、間違いなく〝人間〟の選択です。諏訪から時行たちとともに旅立った御左口神(ミシャグジ)である雫の存在は、私たちに何を訴えようとしているのでしょうか。

〔鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)『太平記』(岩波文庫)を参照しています。〕

 

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