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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(170)シイナの「宿願」とは本当に「主君のため戦い抜く」ことなのか!? 多大な損失と僅かな恩賞への不満は断ち切った伊達行朝と奥州武士たちが手にした「価値」とは……?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年9月9日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「いいえ いいえ! 今度こそ主君のため戦い抜くのが私の宿願!!

 顕家の最期に涙しながらも前を向く時行のアップで終了した感動の第169話ーーからの、「発情!! 戦闘レディ!!」の編集部のキャッチコピーで始まる『逃げ上手の若君』第170話は、前回とのギャップに〝ええっ?〟と、少しだけ引きました。
 単行本第17巻の表紙がシイナだしな……などと商業的な展開を考えてしまいながらも、〝シイナってこんな面白いキャラクターだったんだ〟という新鮮な驚きをあらためて感じてもいます。シイナは登場以来、自分の「宿願」とは「主君のため戦い抜く」ことであると言っているのですが、おそらく〝素〟であろう彼女の姿は、彼女に好意を寄せている弧次郎がキレ気味で心配するような危なっかしさといい、また、正宗と悪ノリする(第126話「絶技」)ような見境なさといい、どこか可愛らしさすら感じられて、弧次郎に告げる「宿願」に何となく違和感を感じてしまうのです。
 私は副業で占いの鑑定や講座に取り組んでいるのですが、シイナを見ていると、最近の自分の問題意識と重なるところがあるのに気づかされます。
 それというのは、周囲の環境などによってそうだと思い込んでいる「宿願」を、自分本来のものだと誤解したまま時が過ぎていくということです。実際には、そうした「宿願」は〝ダミー〟であることが多いのです。しかも、多くの人にとって自分自身の本質や願望というのは、世間の常識からは逸脱していたり、あるいは、ささやかすぎたりします。それらを表に出すと社会的には生きるのが厳しくなる(反社会的ということではなく、あまり称賛されたり支持されたりはしない、あるいは、あまり仕事やお金にはならないということです)ためにそれを隠すか、場合によっては、まったく気づかないままに過ごして生涯を終えると言えます。
 死ぬことではなく、逃げて生きることを郎党たちに命ずる時行のもとでは、「主君のため戦い抜く」果てに死ぬ……ということを簡単に望むことができません。そんな環境の中、シイナも自身の〝素〟の部分、すなわち、必要に迫られてかつて外的に設定した「宿願」とは異なる、シイナ本来の内的な「宿願」が、自分でも気づかないうちに顔を出してきているのかもしれません。

 シイナの「発情」は顕家の最期とはまるで関係なさそうでありながら、実のところ、「一人一人の個性」を「生かした誰もが必要とされる、誰一人欠けることのない国づくり」(本シリーズの前回より引用)と重なるテーマを有しているのです。ーー第170話は、時行やその郎党、奥州の武将たちが、冒頭のシイナ同様に、〝何のために、誰のために〟吉野までやって来たのであったかというところに向き合う姿を描いていると思いました。

 「悔いは無い 顕家様には奥州の皆が賭ける価値があったのだ

北畠顕家とともに石津で最期を迎えた南部師行も、
きっと同じ思いを抱いていると私は想像します。

 北畠顕家との奥州での思い出を胸に、多大な損失と僅かな恩賞への不満は断ち切った伊達行朝のこの一言に、その答えがあると私は思いました。

 弧次郎「たまに暴走するところが面白いんスよ若は! 帝に文句を言える武士が主君だなんて自慢ですぜ!
 駿河四郎「どのみち今回の戦ではろくな恩賞はもらえません 次こそ勝ち戦で手柄を!

 私たちは、この世で得た財産や所有物を死後も持ち続けることはできません。そう考えると、私たちの人生の「価値」とは、目的ではなく過程にあるなどとも言われる意味がわかる気がするのです。

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 第170話で私が読み取った大きなテーマは上で書ききっておりますが、今回は歴史的にも確認しておきたいことがいくつかありましたので、以下に思いついたままに記していこうと思います。

 まず、楠木三兄弟が顕家の最期に何を思ったのかについて描かれていますが、今後の展開が予想されるものとなっています。
 楠木三兄弟については以前に本シリーズで扱っております。

 楠木三兄弟の後に高師直登場というのもまた暗示的です。
 さて、師直が普段から神仏を畏れる様子など微塵もなく、石清水八幡宮までをも燃やしたというのは有名な話なのですが、『逃げ上手の若君』では、単に師直が婆娑羅者で罰当たりだという従来の説について、「どこか別に寺を建てれば文句あるまい」といった師直の合理精神を当時の人々がそのようにとらえていたのであろうという解釈をしていました。ところが実際のところは、「尊氏様以外の神仏は焼いて構わん」という理由の方がまさっているというこの設定には、師直のダメ男ぶりを見せつけられるようで、仕事のできるカッコイイ師直に恋していた私は悲しみが止まりません。ーー神と崇める主君(を蝕む何か)の正体に対して無防備すぎる師直に欠落しているのは、教養なのか直観なのか……やはり神妙さとか敬虔さなのでしょうか。

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 後醍醐天皇や時行のことについてもお話ししてみたいことがまだまだあるのですが、ストーリーの展開から次回に回しても大丈夫そうなので、今回はこのあたりで火曜日にならないうちになんとか更新をしたいと思います。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕


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