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【鳥取寺社縁起シリーズ】「因幡堂縁起絵巻」(3)

 【鳥取寺社縁起シリーズ】第二弾として、「因幡堂縁起絵巻」詞書部分の注釈・現代語訳をnoteで連載いたします(月1回予定)。

  〔冒頭の写真は、鳥取県立博物館『はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』の表紙(「因幡堂縁起絵巻」の一場面)です。〕


■寺社縁起本文・注釈・現代語訳

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 本文(翻刻)は、『企画展 はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』〔鳥取県立博物館/2008年10月4日〕の巻末「鳥取県関係寺社縁起史料集」のものを使用しています。

 ※「因幡堂縁起絵巻」の概要は第1回をご覧ください。

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【 第一段(13行目から最後まで) 】

〈本文(翻刻)〉
忉利天王*第二御子天降て為人王亦建
立之壮厳美麗如釋尊在世相當垂仁
天皇*御宇抑砥園精舎四十九院内東北
療病院本尊者等身薬師如来旃檀*
像釈尊御自作聖容*也然伽藍破壊之
時彼薬師指東方飛御坐不知龍宮城*の
畜類遠乎利益*御坐つらむ其後村上天皇*
御字天徳*三年巳未大納言家橘好古*孫子*少将
行平*為神拝参向因幡國一宮當社は武内
大臣也彼大臣命二百八十歳*行當國比葉太
尓*登竹末唱法蔵比丘*即我身是暗跡*畢
則點*就此地号一宮然は行平打裏より我
宿所に帰給気色誠美々敷*目出かりけり

〈注釈(語の意味)〉
*忉利天(とうりてん)…三十三天とも訳される。インド人の考えたスメール山(須弥山)の頂上にある天で、インドラ(帝釈天)がここの主である。頂上の四方に峰があって、それぞれに八天があることから合せて三十三天となる。その天人の寿命は、人間の100年を一日一夜としたときの1000年であるという。欲界(三界)の六点の第2にあたる。〔ブリタニカ国際大百科事典〕
*垂仁天皇(すいにんてんのう)…記紀伝承上の天皇。垂神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅(いくめいりびこいさち)。
*栴檀(せんだん)…(栴檀那。香木の名)ビャクダン科の半寄生常緑高木。インドネシア原産で近縁種とともに香科植物として栽培。高さ6メートル余。葉は対生し黄緑色。雌雄異株。花は初め淡黄色、のち赤色。芯材は帯黄白色で香気が強い。古くから日本へも渡来、薫物(たきもの)とし、また、仏像・器具などを作る。皮も香料・薬料に供する。
*聖容…聖姿〔聖上の姿〕。玉姿〔玉のように美しい姿〕。
*龍宮城=竜宮…漢語。海中にあるという竜神(りゆうじん)の宮殿。仏典では海竜王(かいりゆうわう)のものが知られ、「是より南大海の底、十六万由旬行て竜宮城ある(塵添壒嚢抄・一七)」などと見え、ここで海竜王は仏を供養した。また、経典を保管する所とされ(阿含経)、竜樹(りゆうじゆ)はここに赴いて大乗経典を授けられたという。奈良の薬師寺は、祚蓮が入定して「竜宮のかたちをみてすこぶるまねびつくれるなり(三宝絵・下)」という。〔角川古語大辞典〕
*利益(りやく)…①〔仏〕ためになること。法力によって恩恵を与えること。自らを益するおおを功徳(くどく)、他を益するのを利益という。
②神仏の力によって授かる利益。利生(りしょう)。
*村上天皇(むらかみてんのう)…平安中期の天皇。醍醐天皇の第14皇子。名は成明(なりあきら)。親政を志向、後世、天暦の治と称される。日記「天歴御記」。(在位946~967)(926~967)
*天徳(てんとく)…平安中期、村上天皇朝の年号。天暦11年10月27日(957年11月21日)改元、天徳5年2月16日(961年3月5日)応和に改元。
*橘好古(たちばなのよしふる)?
*孫子(そんし)…孫と子。孫または子。まごこ。〔日本国語大辞典〕
*行平=橘行平(たちばなのゆきひら)…京都因幡堂縁起で知られる橘行平は1007年(寛弘4)国衙官人、百姓等に訴えられ、解任された。〔世界大百科事典 第2版【因幡国】より〕
*武内大臣=武内宿祢(たけうちのすくね)…大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群(へぐり)・蘇我の諸氏がある。
*命二百八十歳…命(みこと)〔=武内宿祢〕は仁徳天皇55年春3月因幡国の亀金岡(かめがねのおか)に双履を遺し、360余歳でお隠れになったと記されています。古くから宇倍神社本殿の後にその霊跡と伝わる石があり、双履石(そうりせき)と呼ばれています。ここは日本一長寿の神さま御昇天の地です。〔宇倍神社公式ホームページ〕

*法蔵比丘(ほうぞうびく)…法蔵菩薩。すなわち、阿弥陀如来の修行時代の名。
*比葉太尓…ヒバダニ。地名。
*跡…あしあと。あしがた。しるしをとどめる、そのもの。〔漢字源〕
*點=点…ある特定の箇所・部分。〔漢字源〕
 ※「跡」「點」ともに、サ変動詞化して解釈した。
*美々敷=美々しく…はなやかで美しく。りっぱであって。見事であって。
 ※特に記載がない場合は『広辞苑』による。

〈書き下し文〉
…忉利天王第二御子、天降て人王と為り亦之を建
立す。壮厳美麗にして釋尊在世のごとし。相當に垂仁
天皇御宇、抑々祇園精舎四十九院内東北
療病院の本尊は等身の薬師如来旃檀
像にして釈尊御自作の聖容なり。然して伽藍破壊の
時、彼の薬師東方を指して飛び御坐す。龍宮城の
畜類、遠ざくを知らずや。利益御坐しつらむ。其の後、村上天皇
御宇、天徳三年巳未、大納言家橘好古孫子、少将
行平神拝の為、因幡國一宮に参向す。當社は武内
大臣なり。彼の大臣、命二百八十歳にして當國比葉太
尓(ひばだに)に行き竹の末に登り唱ふ。「法蔵比丘、
即ち我が身なり。是れ暗に跡し畢ぬ。」と。
則ち點じ、就ち此の地一宮を号す。
然れば行平、内裏より我が
宿所に帰給ふ気色、誠に美々しく目出たかりけり。

〈現代語訳〉
…忉利天王の第二御子が天上より地上におりて人間の王となり、またこれを再建した。
荘厳美麗で釋尊がこの世にあった時のようであった。日本では垂仁
天皇の御代になるが、そもそも祇園精舎の四十九院内東北
療病院の本尊は等身の薬師如来旃檀
像であって釈尊御自作の聖上のお姿をしている。そうして伽藍が破壊された時、その薬師如来像は東方を目指して飛び去っていかれた。龍宮城の
生き物たちが、(難を)遠ざけたのを知らないだろうか。(龍宮城から薬師如来像へ?)利益がおありになったのであろう。その後、村上天皇
の御代、天徳三年巳未に、大納言家の橘好古の子孫である、少将
行平が神拝のために、因幡国一の宮に参向することとなった。この社は武内
大臣(が祭神)である。大臣は、御年二百八十歳で因幡の国の「比葉太
尓(ヒバダニ)」に足を運んで竹の先端まで登って声高らかに言った。「法蔵比丘とは、この私自身である。このことは密かにそのしるしをとどめおいた」と。
その証が残るこの地は、一の宮を称した。
そういうわけで行平が、内裏から自分の
家にお帰りになった様子は、本当に晴れがましくりっぱなものであったのだった。
                   〔「因幡堂縁起絵巻」(3)おわり〕

 今回出てきた「比葉太尓」ですが、最初は何だかわからずお手上げ状態でした。訓読を何日もあれこれ考え続けていたところ、ふと、鳥取にいる時に国府町のあおば地区公民館が主催した歴史探訪に参加した時のことを思い出しました。その時の資料をあわてて探して……「ヒバダニ(谷)」についてまとめたプリントを見つけました! 思った通り、「因幡堂縁起」のこの部分についても記してあり、「比葉太尓」が地名であったことを思い出せました。その時に講師をしてくださった磯見さん、ありがとうございました! この場を借りてあらためて御礼申し上げます。


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