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おすすめの古典――『徒然草』⑤(2018年4月22日)
おすすめの古典を紹介、第一弾『徒然草』も最終回となりました。
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「第百五十二段~第百五十四段に登場する日野資朝がヤバい!」をテーマに、『徒然草』成立当時の思想について、これまで四回にわたって考察してきました。兼好が百五十二段以下、資朝三部作(?)の三段を連続させている意味とは何か。
今回は、意外な段落を手掛かりに、兼好に潜む危うい思想――人間の智の可能性を拡大させて現実的・合理的な考えを頼りにする価値観――について、考察してみたいと思います。
「八つになりし時、父に問ひていはく」で始まる『徒然草』の最終段は大変有名で、皆さんも「何を今さら…」と思われるかもしれません。しかし私は、資朝三部作について深く考察することができた時初めて、『徒然草』最終段の持つ意味の大きさにはっとしました。
八歳の兼好は父に「仏とは如何なる物にか候ふらむ」と問いかけます。
兼好「父上、仏とはどのようなものでございますか」
父「仏は人がなったもののだよ」
兼好「人はどうやって仏になるのでございますか」
父「仏の教えによってだよ」
兼好「教えました仏には何が教えたのでございますか」
父「それもまた先に仏となった人の教えによってだよ」
兼好「では最初の仏とはどのような仏でございますか」
父「空から降ったか、地から湧いたか…うーむ」
兼好に問い詰められて答えに窮した兼好の父は、この話を面白がっていろいろな人に話したということで、八歳の兼好の聡明さが際立つ逸話となっています。
しかし、なぜ兼好はこの思い出話を最終段にしたのでしょうか。
皆さんはお気づきですか。八歳の兼好の発言が、資朝と同じ、人間の智の可能性を拡大させて現実的・合理的な考えを頼りにする価値観に基づいていることに――。
最初の「仏とは如何なる物にか候ふらむ」の問いかけからすでに〝信仰としての仏〟とは全く異なる次元に兼好の精神のはたらきは存在しているわけです。
「智」と「信」は相容れないものです。「信じる」とは人間の「智」を超えた大いなる何者かに全てをまかせ、ゆだねることです。だから、仏が何者かなど考えたら、もうそこで信仰の中で約束される救済からはこぼれ落ちていくのです。
資朝の業の深さはそこにあると私は考えています。そしてまた、実は兼好も…。
一方で兼好は、「ただすなほにめづらしからぬ物にはしかず」として資朝が「変てこ」な植木コレクションを打ち捨てたことについて、「さもありぬべきことなり。」とコメントしてもいるわけです(第百五十四段)。「ありのままでまっすぐなものが最上」という価値観は、実のところ「信じる」ことと同質の精神のはたらきです。
だから、兼好は「智」の価値観に侵された切った人間ではありません。もちろん、「変てこ」植木コレクションに対し、突然我に返って嫌悪を覚えた資朝も、汚染度は兼好より強かったとはいえ、「智」の価値観に侵され切っていたわけではなかったのです。
ゆえに、『徒然草』最終段は、旧来の価値観と新しい時代の価値観のはざまにあった兼好の疑問が投げかけられているような気がします。
現代はどうでしょうか。
知識・知能の力(具体的には科学技術と経済)で傲慢になり、さらには様々な刺激によって繊細な感覚が麻痺してしまった我々に、大いなる力に救済されるなどという価値観が入り込むすきがあるのでしょうか。そうした価値観に対する疑問どころか、それがかつて日本に存在したことすら知る由もないのではないでしょうか。
古文の中に眠る思想の数々はまるでタイムカプセルのようです。掘り起こしたその時、かつて日本人が持っていた〝あの時の大切な思い〟の数々に気づかせてもらうことができるのです。