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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(118)斯波家長(17歳)>北畠顕家(20歳)>足利尊氏(オッサン)という不思議……若さとは、それだけで強大なエネルギー!? 壮大な実験場と化した南北朝時代

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年7月23日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 『逃げ上手の若君』の関東庇番の面々は個性的でイケメンぞろいでしたが、最初はどのキャラクターに対しても良いイメージを持っていませんでした。しかし、登場時から私が唯一「庇番衆牛車旅」(第72話「出信濃1335」参照)をしたいかも……と思っていたのが孫二郎君でした(生意気でかわいい)。
 足利直義に懐柔されちゃってがっかり(第91話「直義1335」参照)でしたが、直義の見立ては間違っていなかったその成長ぶりに大感激の第118話でした。本編を何度も読み返してタイトルに戻ってみたら「学生対決1337」とあり、〝確かに…〟と思いました。
 少し前に、飛行機事故で行方不明となった4人の姉弟が生還したニュース報道がありましたが、13歳の長女が9、4、1歳の弟たちの世話をして40日間アマゾンのジャングルで生き抜いたということでした。子どもたち(特に長女)は、祖父母や母親から幼い頃より自然環境に対する知識を授けられ、練習も積んできたことを専門家が指摘していました。
 それに比すればきっと、20歳の「大学生」はもちろん、17歳の「高校生」、もうすぐ中学生の「小学生」が、「東日本全体の覇権を争う」ことは可能だったでしょう。なぜなら彼らは、当時のトップエリートであり、素質と才能、環境に恵まれ、そうなるべく英才教育を受けてきたはずですから。

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 「元・関東庇番寄騎 現・北朝奥州総大将兼関東執事 斯波家長 歳は十七

 涼し気な目元で寡黙な感じになっていますが、顕家を見下ろすその首元には見覚えのあるアイテムがーー中先代の乱で亡くなった庇番衆のことを忘れてはいないのですね。
 「尊氏が西上した後の鎌倉を守る尊氏の子息義詮(七歳)の補佐を務める足利一門の斯波家長(義詮が幼少のため、鎌倉における足利方の事実状のリーダーであるが、本人も十六歳)」は、「もともと尊氏が建武政権から離反した際、顕家の動きに備えるため陸奥に派遣され、陸奥から顕家を追撃してきたのだが、当時は鎌倉にとどまって義詮の補佐にあたっていた」と、鈴木由美氏の『中先代の乱』には記されていました。
 ※当時…延元元(1336)年3月頃。
 家長の活躍ぶりは、顕家に負けてはいないようです。以下は、『国史大辞典』の「斯波家長」の項より一部引用しました。

 建武三ー四年中、父高経は越前守護、叔父時家(家兼)は若狭守護であり、家長を支えたのは主として鎌倉府の奉行衆であった。この組織を基盤にした家長が、駿河・甲斐以東の関東・奥羽諸国の諸氏に対して、軍勢催促、軍忠状証判、感状授与、恩賞推挙、所領安堵・預置、寺領寄進、禁制下付、相論審査などの権限を行使した二十数例の事績が知られる。特に奥羽両国に対しては、守護の存在する関東諸国と異なって、ことさらの軍政権を行使し、従弟斯波兼頼や宿老氏家道誠・御内侍所大泉平九郎・佐竹一族中賀野義長らを代官として派遣、または現地の有力武将を郡守護的な侍大将に補任した。
 ※建武三ー四年…1336ー1337年。南北朝時代には、南朝と北朝で異なる年号を用いていた。例えば、上記の「延元元年」は「建武三年」に相当する。

 『日本中世史事典』によれば、これらの家長の活動は、「関東・奥羽各地」の「経営強化」を行い、「奥羽には側近を代官として派遣」して「有力国人の組織化」を図ったことになります。
 そうした地固めをしてこそ、(1336年の)「四月には陸奥多賀城に戻る顕家と相模片瀬川で交戦するなど、東国各地でその帰途を妨害させた」などということが可能だったのですね。
 ※国人(こくじん・こくにん)…在地の武士。特に、南北朝~室町時代、諸国の在地領主の一般的呼称となり、国衆などを含めてもいう。守護は任命されて外から入って来るので、これに対して、その国土着の人の意。
 ※多賀城(たがじょう)…奈良時代、蝦夷に備えて、現在の宮城県多賀城市市河に築かれた城柵。東北地方経営の拠点として国府・鎮守府を置く。

 なお、この頃に鎌倉で義詮を支えていたメンバーには家長の他に、第118話でその家長に話しかけている上杉憲顕、そして、高師冬(『逃げ上手の若君』では、相模川の合戦で「尊氏の力」に侵され、師直によって奪われた吹雪!?)もいたそうです。

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 「圧倒的強さであの尊氏を破ったという

 このコマの、鬼気迫る表情の顕家と、狼狽するだけのオッサンと化した尊氏が、実に対照的ですね(妹は〝やられてヤバイ時の尊氏が毎回面白過ぎる〟と言ってウケていました)。
 『ビジュアル日本の名将100傑』によれば、1335年12月22日に出立して翌1月13日に近江に到着した顕家は、1月27日の「京での戦いでは、2万の手勢で50万の尊氏軍と互角にわたり合い、勝利のきっかけを作る」とあります。「挙兵以来負けなしだった尊氏は、ここで手痛い初の敗戦を経験する」のですが、2月11日には軍を再編、京に攻め込みます。20万の尊氏軍を、顕家は新田義貞らと10万の軍で摂津・豊島河原てしまがわらで迎え撃ち、勝利します。「数には劣るが勢いに勝る顕家軍は、この戦いにも勝利する。顕家は、武略抜群の尊氏に見事な連勝を飾ったのだ」とあります。
 「数には劣るが勢いに勝る」とは、19歳の顕家の戦いぶりを的確に表現している気がします(この本には、ライターさんの名将たちへの愛と、それを伝えつための熱量と力量が感じられます…)。
 
 ちなみに、顕家の活躍や人物像については、すでに本シリーズのこちらでも紹介しています。

 第117回で例にあげた「東夷あずまえびす」でしたが、『逃げ上手の若君』の「キラキラして素敵」(亜也子評)な北畠顕家が使うと、タジタジですね。また、「奥州から京への爆速遠征」を可能にした東北産の屈強な馬を、顕家が国司として重要視したことがわかる文書も、NHK『歴史探偵』では登場していました。
 
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 第118話でとても興味深かったのは、尊氏より強い顕家が、年下の家長に苦しめられたということでした。
 若さとは、それだけで強大なエネルギーなのかもしれません。現代人の多くは、最大公約数的な常識や枠にとらわれて生きることが当たり前のようになっていますが、中世では、まして価値観が崩壊したこの時代には、個々の持つ資質や能力(それは、家系的に引き継いだものも存分に含まれます)を、現代よりも十分に発揮できたという可能性はないでしょうか。ましてや、もともと常識や枠にはとらわれない子どもであれば、さらに純粋に個としてのエネルギーの放出はなされたとは考えられないでしょうか。
 松井先生は、若い人たちや子どもたちの持つ可能性を自身の作品に描くことに心を砕いていますが、まさに南北朝時代は格好の時代だと思われるのです。

〔阿部猛・佐藤和彦編集『日本中世史事典』(朝倉書店)、日本史史料研究会・監修、平野明夫・編『室町幕府全将軍・管領列伝』(星海社)、歴史魂編集部編『ビジュアル日本の名将100傑』(アスキー・メディアワークス)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)を参照しています。〕


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