【『逃げ上手の若君』全力応援!】(171)「ジュンサイ」のおがずだけでも及第点だったはずの時行は、プラスアルファの解答で後醍醐天皇との「無礼講」を果たす!? 帝ですら逃れられなかった「しがらみ」が解かれる現代で……ある問題提起
「朕の食べたいおかずを当てて調達して来い」
「ジュンサイ」とともに「食べたい物」を当てられなかったら「死罪」という、よく意味のわからない後醍醐天皇の要求に対して、時行の「はぁぁ⁉」で終わった『逃げ上手の若君』第170話でしたが(編集部の付けた「正気の沙汰とは思えない……!」のコピーが秀逸)、帝に意見する時行はまさに北条DNA炸裂の「ありのままの相模次郎」(編集部注では「相模守高時の次男坊」)だなと思ってしまいました。
ところで、第171話の冒頭で光る帝の両目の場面の右側の方に違和感……というか、第170話からすでに当たり前のように、帝の姿を隠す御簾の右側が破損して描かれているのですよね。これは、第114話「インターミッション1336🈡」の回で、足利尊氏に幽閉された帝が「グシャァ」と握りつぶしたままだったということに気づかされました(笑)。
〝直せばいいじゃん!〟と思うのですが、そうしなかった理由の一つとして、吉野に移った南朝の財政が厳しくて御簾の修理すらままならなっかったことが考えられるかと思います。ですが、私はもう一つの理由の方がありそうな気がしています。それは、御簾の破損をその時のままに残しておくことで、尊氏から受けた屈辱を忘れないで戦い抜くという覚悟の証とし、常に自身の気力を奮い立たせるようにしたかったために、帝自身が望んで修理させなかったのではないかということです。ーー有名な四字熟語である「臥薪嘗胆」のようですね。
※臥薪嘗胆…(中国の春秋時代、越(えつ)との戦争で敗死した呉王闔閭(こうりょ)の子の夫差は、父の仇を忘れないために薪の中に臥して身を苦しめ、ついに越王の勾践(こうせん)を降伏させた。一方勾践はゆるされると、苦い胆を室にかけてそれをなめては敗戦の恨みを思い出して、ついに夫差を破ってその恨みを晴らしたという「十八史略‐春秋戦国・呉」にみえる故事から)仇を報いたり、目的を成し遂げたりするために、艱難辛苦をすること。
そう考えると、時行に与えた一見すると意味不明な要求の背後に「蓴羹鱸膾」のメッセージを潜ませ、当てさせようとした後醍醐天皇のキャラクターが、握りつぶされたままの御簾からさえも、文字通り〝垣間見られる〟ような気がするのです。
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「蓴羹鱸膾 故郷が恋しい事を表す故事成語です」
ジュンサイですが、かつては日本各地の沼や池に自生し、「沼縄(ぬなわ)」とも称されていたそうですが、現在は東北地方での栽培、特に秋田県産のものが有名で、中国産の輸入も増えているそうです。
寒天質に包まれた若芽は軽く湯がいて水にとり、酢の物や和 (あ) え物、汁の実とする。味や香りは淡いが、寒天質の滑らかな舌ざわりが好まれる。湯がいたものを瓶詰にしたり、塩漬けにして保存する。市販されている瓶詰のものは湯がいてあるので、そのまま利用できる。98%が水分で、栄養価はほとんどない。古くから食用とされていたと考えられ、『万葉集』にも「ぬなは」の名がみられる。〔日本大百科全書(ニッポニカ)〕
もしかしたら、後醍醐天皇は「蓴菜の汁物」と「鱸の膾」だけでも及第点を与えるつもりだったのかもしれません。ところが、時行はさらに「鱸」に関する故事を料理に加えています。
「船に飛び込んだスズキを食べると天下を取れると言われます 周の武王や清盛公に因んで船盛りの形に」
こちらは、『太平記』と『平家物語』にその逸話が記されていました。日本古典文学全集の現代語訳で紹介したいと思います。
昔、周の武王が八百諸侯を率いて、殷の紂王を討とうと孟津を渡ったときに、白魚がはねて、武王の船に入りました。武王はこの魚を取って、天帝に捧げました。願いのとおり合戦に勝利したので、殷の代はついに滅んで、周は八百年の間天子の位を保つことができました。〔『太平記』「白魚船に入る事」〕
昔清盛公がまだ安芸守であった時、伊勢の海から船で熊野へ参詣されたが、大きな鱸が船の中に躍り込んできたのを、先導の修験者が申すには、「これは熊野権現のご利益です。急いでお食べなさい」と申したので、清盛が言われるには、「昔、周の武王の船に、白魚が躍り込んだそうだ。これは吉事である」といって、あれほど十戒を守り、精進潔斎を続けた道中ではあるが、料理して、家の子、侍どもに食べさせられた。そのせいか、以後、吉事ばかり続いて、太政大臣という極位にまでお上りになった。子孫の官位の昇進も、竜が雲に昇るよりは、いっそう速やかである。こうして先祖九代の先例をお越えになったのは、まことにめでたいことであった。〔『平家物語』「鱸」〕
後醍醐天皇が、「死罪」どころか「朕との無礼講を許す」と言って御簾から出てきたのは、やはり時行が帝の想定以上の献上品を奉ったことでその教養の高さを示したからであろうと私は考えます。
帝をして「学問の師は諏訪頼重か」と言わせた頼重ですが、マンツーマンの年齢肌攻撃とは、教員生活の長かった私にも謎の指導法です。しかしながら、時行が贅沢な教育を受けていたのは確かだと思います(頼重の孫の頼継が、嫉妬で時行に憎しみを抱くほどだったのですから……)。
頼重や盛高が、中先代の乱の料理で奪還した鎌倉で、足利直義たちが残していった業務などを、北条泰家とともに難なく処理していたのは記憶にも新しいところです。諏訪氏は、金沢文庫を持っていた金沢北条氏の周辺で吾妻鑑の編纂などにも関わっていたようでもあるので、古典的な教養とともに現実的な問題にも対応できる知識を身に着けるべく努力していたのだと思います。
話を後醍醐天皇に戻すと、ある意味グルメであったのは確かなようです。私が所属している南北朝時代を楽しむ会の会員の方に、吉野では蛙などを好物として口にしていたと聞いたことがあります(蛙の肉は鶏肉と変わらないような味がするそうです)。ーーそうですよね、尊氏から逃れて吉野まで逃れ、死ぬまで京での再起を諦めることのなかった方ですから、〝蛙なんか食えるか〟なんて文句言う姿は思い浮かびませんよね……。
そして、最初は「噂通りの理不尽大王だ」と呆れていた時行が、時行だけの特別な「綸旨」を帝より与えられたことで、「…顕家卿が帝に惹かれた理由 わかった気がします」と伝えたのと同様に、私も後醍醐天皇への評価を考え直したい気持ちになりました。楠木正成や北畠顕家のようなスーパーヒーローが、勝ち目がないとわかりながらなぜ南朝方として最期まで後醍醐天皇のために戦ったのか、単に忠義というだけで説明がつかない部分について、松井先生は『逃げ上手の若君』中でその真相に挑んでいるような気がしました。
「帝というしがらみさえなければ… このお方はもっと自由に翔べた気がする」
私が占いに取り組んでいることはこちらで何度もお話していますが、後醍醐天皇を鑑定してみたこともあります。ざっくり言うと、心に思ったことを何でも現実化できるようなすごい力を持つ方でしたが、時行の言う通り、天皇家に生まれたことよってその人生を大きく支配されていました。
あるいは、『逃げ上手の若君』のこれまでの展開に占い的な要素による読みを重ねると、足利尊氏が何らかの〝魔〟的な存在に魅入られてしまうことの対抗手段として、尊氏とは違う何らかの存在から特に選ばれて天皇となった人なのかもしれない……などという想像をたくましくしてしまいます。だとしたら、帝が本来持っている〝個〟としてのあり方とその実現のためのエネルギーは、そうでないもののために費やされてしまうのです。
古典『太平記』を読んでいると、輪廻転生の果てにそうした「しがらみ」を脱してまた皆が集える時がやってくるのではないかという願いや祈りのようなものを感じる時があります(『逃げ上手の若君』という場では、それがかなえられているかもしれません)。
第171話の最後で登場した新田義貞という人も、足利尊氏と後醍醐天皇の間で翻弄された人物であり、輪廻転生の果ての自由な現代でこそ、輝ける人であるような印象を受けます。『逃げ上手の若君』の義貞については、主人公・時行とのからみがほとんどないにもかかわらず、じわじわと人気が出ているのような印象です。後世にずいぶんと「英雄」の役割を盛られた感の強い義貞に対して松井先生がどのような解釈をされるのか……正成の時にも相当に驚かされましたが、義貞についてもまるで想像がつきません。楽しみです。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕
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