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批評の世紀、あるいは諷刺の黄金時代(2)(2006)

2 市民革命と諷刺
 規則は、「暗黙のルール」という言葉があるように、顕在化しているだけでなく、潜在しているものも多い。諷刺作家は、しばしば、この潜在的規則を顕在化させ、人々の笑いを誘う。17世紀後半から18世紀前半の英国はまさにそういう人を食った文学者が闊歩している。それは「諷刺の黄金時代(The Golden Age of Satire)」とも呼ばれている。思いつくだけでも作家の名前を挙げてみれば、ジョン・ドライデン、ジョナサン・スウィフト、アレクサンダー・ポープ、ジョン・ゲイ、ダニエル・デフォー、ウィリアム・ホガース、ローレンス・スターン、エプレイム・チェンバース、サミュエル・ジョンソンなど枚挙に暇ない。

 1642年、スチュアート絶対主義打倒でまとまった市民がピューリタン革命を起こす。この内戦は、491月、国王チャールズ1世の処刑で一応の決着を見る。王政は廃止され、「イギリス共和国(Commonwealth of England)」が成立する。

 1653年、オリバー・クロムウェルがクーデターを指揮し、議会を解散させ、政府・軍の最高官職の護国卿に就任する。彼は史上初の軍事独裁者として歴史に名を刻むことに成る。

 1658年、父の死後、後を継いだリチャード・クロムウェルは無能を絵に描いたような人物で、翌年には、分不相応な権力を放り投げてしまう。政局が混乱する中、王党派は、急進的な水平派と対抗していた長老派を議会を尊重するという条件で口説き落とし、大陸に逃亡して反コモンウェルス運動を続けていたチャールズ一世の子を帰国させる。彼は、1660年、チャールズ2世として即位し、王政復古が成功する。

 ところが、このカトリックの国王は、権力を手にすると、その約束を反故にする。「ちょろいもんだ」と思ったかどうかは定かではないが、あろうことか、彼は絶対王政への回帰を推し進め、議会を軽視する。そのため、議会と宮廷との対立がエスカレートしていく。

 1685年、チャールズ2世が亡くなると、弟がジェームズ2世として即位する。彼も横暴だったが、男の子供がいなかったため、国教会聖職者や地主などのトーリー派が多数を占める議会は対決姿勢を弱め、政治的にではなく、生物学的な解決に期待をかけている。しかし、相手の失敗を待ってチェスを指す名人はいない。88年、男子が誕生し、それは裏切られてしまう。

 そこで、議会はオランダのオレンジ公夫妻を国王に招くと議決し、ウィレム公も承諾する。公はフランスのルイ14世と戦争を始めたばかりだったが、前進する方向を変え、オランダ軍二万を率いてイングランドに上陸を始める。この報を知ったジェームズ2世は慌てて議会に譲歩を示したけれども、拒否される。軍に出撃命令を出そうとしたが、英国軍内部でも、国王のカトリック優遇政策に不満を抱いている兵士が多く、戦闘に応じる動きを見せない。追い詰められたジェームズはフランスに逃亡するほか道がなくなる。勝利した市民はこの無血革命を「名誉革命()Glorious Revolution」の名で呼ぶことになる。

 1689年、オレンジ公ウィリアムと妻メアリは「権利の宣言(Declaration of Rights)」を受け入れて、ウィリアムズ3世・メアリ2世として即位し、共同統治を始める。ピューリタン革命と王政復古、名誉革命を通じ、絶対王政の時代はイギリスではもはや過去のものとなる。同年12月、権利の宣言を明文化した「権利の章典(Bill of Rights)」により、国王は立法・行政・司法・課税のすべてにおいて議会の承認を必要とすると定められる。国家の最高機関は王権ではなく、議会へと変更される。

 この間、イギリスは三度に亘ってオランダと覇権を争って戦火を交えている。1651年、クロムウェルは航海条例を制定する。これは、英国との商品輸出入をイギリス船と当事国・地域の船舶に限定して対外貿易を確保すると同時に、中継貿易で利益を上げていたオランダを締め出す目的に基づいている。オランダは強く反発し、翌年、両国は戦争に突入する。この第一次(165254)に始まり、第二次(6567)、第三次(7374)と三度に亘って英蘭戦争が勃発するが、それは海上権と植民地をめぐる争いである。英国が優勢なまま、両国はウェストミンスター条約を締結する。海上の覇権はオランダからイギリスへと移り、ニューアムステルダムがニューヨークと改称したように、新大陸のオランダ領はほとんどが英領となり、オランダの絶頂期は幕を迎える。

 こうしたイギリスをめぐる国内外の変化により、王権を頂点とする身分制のヒエラルキーが崩れ──あくまで絶対主義的ヒエラルキーが解体しただけで、それ自身が完全に消滅していないにしても──、海外植民地から膨大な量の物と情報が流入してくる。すべてが無秩序に英国に堆積していく。しかし、アダム・スミスは、封建制的秩序の崩壊と資本主義の進展を前に、こう説く。「『自由放任(laissez-faire)』に任せよ」。市民も馬鹿ではない。そう、理性が決着をつけてくれる。

 英国の諷刺文学はこの混沌と共に発達している。ユウェナリスが諷刺はすべてを扱うといみじくも語っていたように、それは、恐るべき消化器官を持っており、膨大な無秩序な堆積物を飲み込める。諷刺は、記号化のミメーシスの作業を通して、混沌に潜在している規則を顕在化させ、秩序を与える。諷刺作家は膨大な情報を記号化して、作品に圧縮・保存する。ただ、ピラミッド型の秩序を斥け、並列させるため、時として、それが雑然としており、グロテスクであることも少なくない。

 このような諷刺を創作する作家もしなやかであると同時にしたたかである。彼らは、器用に、作品を書く度に、ジャンルも文体も使い分ける。さらに、社会的・時代的変化に応じて、政治的・宗教的に臨機応変な姿勢をとっている。それはカメレオンである。

3 ジョン・ドライデン
 ジョン・ドライデン(John Dryden)の思想遍歴は諷刺の黄金時代の気質をよく物語っている。彼は、1658年に亡くなった護国卿オリバー・クロムウェルを追悼する詩で注目されたにもかかわらず、60年に王政復古が成立すると、一転して王政主義者となり、国王チャールズ二世の復帰を祝して『星姫再臨』(1660)と『即位式にあたり国王陛下に捧ぐ』(1661)を表わしている。63年、彼のパトロンであり、宮廷劇作家のロバート・ハワードの妹エリザベスと結婚している。

 1662年、ドライデンはよりよい収入を求めて、戯曲を書き始める。64年の悲喜劇『恋敵』で成功し、それから20年間、英国を代表する劇作家の名声をキープする。当時、社交界の風俗を扱い、機知と洗練さに溢れた「風習喜劇(Comedy of Manners)」が宮廷中心の観客に好まれている。しかし、ドライデン劇の作風は猥雑で、淫らな内容も少なくなく、とうとう『親切な旦那、またはリンバラム氏』(1678)が、下品という理由で、無礼講の時代の当局から異例の上映禁止の措置を受けている。

 王政復古期は、ピューリタンの支配による禁欲主義の反動と国王の節制のせの字もない贅沢・放蕩三昧の生活から、芸術作品にエログロナンセンスがよく描かれた時代である。少々のことでは当局も規制しなかったが、ドライデンは羽目をはずしすぎていると判断される。

 言うまでもなく、ドライデンは卑猥な作品だけを執筆していたわけではない。詩の分野においても、卓越した才能を発揮している。初期の作品は韻律を踏む音楽的な傾向が顕著だったが、後に無韻詩へ向かいっている。中でも、『驚異の年』(1667)では、前年に起きたイギリス海軍によるオランダ軍撃破とロンドン大火を描き、社会的関心の高さも示している。また、ウィリアム・シェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』をモチーフにした『すべては恋のために』(1678)は、王政復古における悲劇の最高傑作の一つと数えられている。68年、「桂冠詩人(Poet Laureate)」と認められ、その二年後、王室年代記編纂官に任命される。

 ドライデンは、1681年、『アブサロムとアキトフェル』を創作し、諷刺詩へと活動範囲を広げる。英雄対韻句によるこの詩は、聖書の登場人物と出来事を用いて、議会少数派のホイッグ党が現国王チャールズ2世の弟ヨーク公でなく、モンマス公を次の王座に就けようとした政治的陰謀を諷刺している。彼は諷刺詩でも人目を惹かずにはいられない。ホイッグ派の劇作家トマス・シャドウェルを痛烈に諷刺した詩『マクフレクノー』(1682)はアレクサンダー・ポープのパロディ詩『愚人列伝』に影響を与えている。

 当然、ドライデンに対し、腹に据えかね、いつか仕返しをしてやるという思いにかられた作家も少なくない。1671年、第二代バッキンガム公はバーレスク戯『リハーサル』を書き、ドライデンを扱き下ろす。相手の手の内を暴露し、それを茶化すのはこの時代によく見られる手法であり、それは「劇中劇(Play-within-a-play)」と呼ばれている。このリハーサル劇は傑作として好評になったものの、憎きあの男をギャフンと言わせるまでには至らない。

 こうした諷刺作家には、どこらともなく横槍が入ることが付き物である。特に、当時の芸術家は、全般的に、潤沢な財産を所有するパトロンの政治的・経済的な庇護の下に活動しているため、支援者の立場を配慮しなければならない。ドライデンも、やはりパトロンのご機嫌を損ねることまではしない。

 しかし、アレクサンダー・ポープ(Alexander Pope)はそういう手心を加える欺瞞を嫌悪し、遠慮会釈のない徹底的な諷刺を貫徹している。彼はドライデンの手法を引き継いで英雄対韻句を用い、より洗練された形式に完成させている。しかも、ポープはパトロンを持たず、イギリス史上初の自立した職業作家である。彼はホメロスを翻訳し、その利益で経済的基盤を確保している。ただ、その販売法は今日の慣習とは異なっている。それは、出版業者から提供された本を訳者自身が予約者に代金と引き換えで販売するという方法であり、言ってみれば、作家は歩く書店である。自立した作家のポープは、これにより、気兼ねなく、辛辣に無能や不正、横暴、偽善を諷刺していく。

What dire offence from am'rous causes springs, 
What mighty contests rise from trivial things 
(Alexander Pope “The Rape of the Lock”)

 ポープは、社会にはびこるありとあらゆる愚鈍や卑劣、衒学を暴き出すために、スクリプレラス・クラブ(Scriblerus Club)の仲間と共に「マータイナス・スクリブレラス(Martinus Scriblerus)」という架空の人物を考案する。彼らは、1741年、この似非学者による『マータイナス・スクリブレラスの回想録(The Memories of  Martinus Scriblerus)』を刊行し、言葉のルーブ・ゴールドバーグとも言うべき学者や作家を嘲笑する。

 1685年、そのヨーク公がジェームズ2世として即位する。このカトリック教徒は議会と民衆の反対に耳を貸さず、兄の死を理由に王冠を頭に被り、専制政治を強行する。ドライデンは、詩『平信徒の宗教』(1682)において自身のプロテスタンティズムを正当化していたが、85年、早速、カトリックに改宗し、詩『牝鹿と豹』(1687)で新たな信仰を弁護している。88年に名誉革命が起こり、プロテスタントのウィリアム3世が王位を継承したけれども、どうしたことか、彼は改宗しなかったため、桂冠詩人の地位と恩給を失ってしまう。

 そこで、ドライデンは戯曲に戻る。しかし、パッとしなかったこともあり、翻訳に方向転換する。彼は個人で古代ローマのウェルギリウスを全訳し、1697年、『ウェルギリウス全集』を刊行している。彼の翻訳は、現代の基準から見れば禁欲的と言うよりも、創作が入り混じっているが、翻訳が極めて創造的作業であることを感じさせる。ホメロスやオウィディウス、ジョヴァンニ・ボッカッチョ、ジェフリー・チョーサーの作品を韻文を使って翻案した『古今寓話集』(1700)も、その延長線上で、書かれている。

 ジョン・ドライデンは18世紀を見ることなく、1700512日、永眠する。それは、オスカー・ワイルドが20世紀の直前にこの世を去っていったのと同様、一つの諷刺と言えなくもないだろう。
 
From Harmony, from heavenly harmony   
This universal frame began:
(John Dryden “Song for St. Cecilia's Day”)


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