音楽の行方─宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』(4)(2014)
第3楽章 Allegro storepitoso
ゴーシュは、動物たちを媒介にして、チェロの練習を続ける。音域が非常に広く、通常は、4オクターブであるが、5オクターブ以上も使われることもあるため、チェロ演奏の最大の困難は、広い範囲に手を動かさなければならない点である。楽器の演奏は身体知であるから、それを体得するために反復練習が欠かせない。しかし、それだけで樹分ではない。動物たちというコーチがいたからこそ、ゴーシュの腕は上達している。音楽の学習における重要な視点が描かれている。それは自分を相対的に認知すること、すなわちメタ認知である。
スウェーデン出身のフロリダ州立大学教授アンダース・エリクソンは熟達に関する認知心理学の研究で知られる。彼は、ベルリンの音楽学校で、バイオリニストについて身体知の研究を行っている。その際、学生を最優秀・優秀・普通の三分類し、さまざまな調査結果との相関性を分析している。
このレベルの差を最も明確に説明づけるのは、18歳までの累積練習量である。最優秀グループは8000時間、優秀グループは5000時間、普通グループは3000時間の練習量である。ちなみに、バイオリンを8歳から始めて、10年間で8000時間練習をするには、1日平均2時間は割く必要がある。
バイオリンの演奏は身体を使う。具体的で、複雑な行為である。反復練習を通じて身体に知識を記憶させなければならない。練習量が多いほど身体知はより体得される。上達するには練習量が必要だ。
身体知は繰り返しの中で身体に知識を記憶さる潜在学習によって体得される。だから、反復練習はもちろん不可欠である。しかし、エリクソンの研究には続きがある。これは高い技術の習得の理由を明らかにしているのであって、創造的な演奏に関する分析結果ではない。そのような演奏をするためには、ただ技術が高いだけでは足りない。音楽についての深い理解が必須である。それには身体知を検証できるメタ認知を会得しなければならない。
音楽に関する深い理解の例としてよく挙げられるのがヨハネス・ブラームスのエピソードである。1853年、20歳のブラームスは、ある演奏会場で、ピアノが半音低く調律されていることに気づく。間の悪いことに、その時はバイオリンとの協奏である。時間がなかったため、ブラームスは半音上げてピアノを弾き、バイオリンと協奏するという離れ業をやってのける。
こうしたメタ認知として作用するのがコーチである。優れたコーチはプレーヤーに自分を相対化する認識を提供する。ゴーシュにとってそれは動物たちである。
かっこうはゴーシュに「ドレミファ」を教えて欲しいと頼み、狸の子は、父親から「ぼくは小太鼓の係りでねえ。セロを合わせてもらって来いと云はれたんだな」と打ち明けている。ゴーシュは、教えることを媒介にして、学ぶ。「教えるとは学ぶことだ」と公言するカザルスはある若いチェリストにこう指導している。「聴きなさい!君はこんな運指をしなかったかね? そう、そうだったね!素晴らしいと思ったよ……これは良かった……そしてここのところ、このパッセージは上げ弓でアタックしなかったかね、こんなふうに?あとは、ミスばかりあげつらって人を評価するような、もののわかっていない連中が取り沙汰すればいい。たった一つの音、たった一つの素晴らしいフレーズに、私は感謝することができる。君もそうしなさい」。
この学習の難しさは日本における西洋音楽の検討の際に欠かすことができない。西洋音楽を日本社会が身体知化するのに半世紀近い年月を費やしている。西洋音楽と本格的に接触したのは明治に入ってからである。1920年代はその近代日本にとって音楽の転換期である。19世紀後半から吸収してきた西洋音楽を自分なりにものにした最初の時期である。慣れも大きいが、それだけではない。
戦前の西洋近代音楽の受容は、詳細に立ち入る余裕はないが、当初、国家形成・国民統合が主目的で進められている。それは、唱歌や校歌など欧米では聞かれない音楽が大量に生み出されたことからもうかがいしれよう。『鉄道唱歌』は東海道線の部分だけでも66番もあり、歌詞も詩と言うよりも駅の紹介で、およそ謡曲ではない。このあまりの単調な長さのため、1978年12月12日放映の『ドリフ大爆笑』のコント「もしもこんな旅行会社があったら」で使われているほどだ。手配の乗車券が届く翌日まで、お客のいかりや長介に社員一同で『鉄道唱歌』を合唱し続ける。
作曲するためには理論以前に各楽器の音色を生かす知識が必要だ。管楽器と弦楽器では同じフレーズでも演奏が異なる。トランペットの場合、ド・ミ・ゾならドとミを短く、ソを長く吹く。一方、バイオリンの場合、ドとミもそれより比較的長く弾く。なお、トランペットはドが均律のシの♭に当たる。
作曲を学習し、楽譜に記せるようになっただけでは十分ではない。演奏家の質と量が備わっている必要がある。実際に演奏されなければ、PDCAサイクルが示す通り、作曲の力は向上しない。全体の層が厚くならなければ、西洋音楽は定着できない。
20年代にこの環境が整う。この頃から常設のオーケストラが短命であったものの、活動を始めている。中でも、重要なのが新交響楽団である。1925年、山田幸作と近衛秀麿が日本交響楽協会を設立するが、翌年、秀麿と多数のメンバーが脱退して結成したのがこのおーぇストラである。これは現在のN響の前身だ。30年代以後、中央交響楽団や東京交響楽団など活動を持続できるオーケストラが設立されている。
レパートリーはモーツァルトやベートーベン、リヒャルト・ワーグナーなど今日クラシックと呼ぶ楽曲が中心である。ただ、山田幸作の作品も含まれている。30弁台に入ると、日本人作曲家による楽曲が本格的にレパートリーの一角を占めるようになる。
ポピュラー音楽の世界でも20年代後半は楽曲の流通や作られ方に転換が見られる。従来、流行歌は、松居須磨子の『カチューシャの唄』のように、劇中歌が口コミで生まれている。1925年にラジオ放送が始まり、外資系のレコード会社が設立される。流行歌は当初からレコードに吹き込まれ、ラジオを通じて巷に流れるようになる。
当時の歌謡曲には次のような特徴がある。都都逸を思わせる七七五の定型詩、1モーラ1音符、ヨナ抜き音階、西洋楽器の使用、西洋の歌唱法である。『東京行進曲』が好例だろう。
歌謡曲以外にジャズの普及も忘れてはならない。『青空』のように、ジャズの曲に日本語の歌詞を付けた曲も流行している。その特徴は歌謡曲と異なっている。それは自由詩、1モーラ1音符、全音階的長音階、AABA形式などである
西洋音楽の系譜にあるクラシックとポピュラーがほぼ同時に社会に浸透したことは混沌とした状況をもたらす。クラシックはメロディの音楽である。機能和声に忠実なモーッアルトの作品はメロディが作品をリードするので、旋律だけに集中していても楽しめる。他方、ポピュラーは、後に述べる通り、リズムの音楽である。アマデウスの名曲と比べて、メロディは魅力的ではない。ロックンローラーがよくコードを刻むと言うが、これは通奏低音の発想である。低音が全編を通じてかんなで続けられ、旋律はそれに乗っている。
こうした雑多な状況の中で、賢治は音楽の行方を『セロ弾きのゴーシュ』に描く。今後の音楽の主要な動向はクラシックとポピュラーの融合である。しかし、彼はそれを直接的なメッセージとして訴えない。あくまで音楽として表現する。