外国語としての日本語の辞典(2)(2013)
第2章 コロケーション辞典
2012年11月23日、『日本語コロケーション辞典』が研究社より刊行されます。これは日本語辞典の新たな歴史の1ページを記した画期的な辞書です。長年日本語教育に携わってきた姫野昌子東京外国語大学名誉教授が監修を務めています。これは『研究社 日本語表現活用辞典』(2004)の改訂版ですが、実際には別物です。執筆者は現役の日本語教員で、大半が女性です。従来の辞典は日本語教育に不向きですから、現場が必要に迫られて自ら作成したというわけです。彼女たちを主人公にしたノンフィクションも書けることでしょう。
「コロケーション(Colocation)」は耳慣れない概念かもしれません。文法用語で、語の慣用的な連結を意味します。例えば、「辞書を引く」と口にしても、「雑誌を引く」とは言いません。また、「腕が鳴る」は理解できますが、「足が鳴る」は何のことかわかりません。こういう暗黙知になっている語の組み合わせを「コロケーション」と呼ぶのです。
『日本語コロケーション辞典』は、従来の辞典ではなかなか引くことができないコロケーションを構成原理にしています。そのため、一般とかなり違った特徴があります。第一が見出し語に動詞・形容詞・形容動詞が使われている点です。多くのコロケーションはそれらが特定の名詞と結びつくからです。
外国人を対象とした日本語用例集はかなり前から出版されています。文化庁は1971年から『外国人のための基本語用例辞典』を刊行しています。これは広辞苑並みに分厚いのですが、横書きで、文字も辞典にしては大きく、行間も広く読みやすくなっています。
文化庁は、日本語を学習するのが主な動機を日本で生活するためと把握し、それに適した用例集を編纂しています。用例は、「いやにあらたまって、気味が悪いね。」や「お入り用がなければすてますよ。」といった具合で、60年代のホーム・ドラマのセリフのようなものが多く見られます。けれども、見出し語はアイウエオ順で、品詞が混在し、例文が羅列されているだけです。コロケーションを基本原理にして辞典が構成されていません。
コロケーションにおいて動詞等が要になることは日本語人にも体感できます。MSワード10で「とる」と入力し、漢字変換したとします。すると、漢字の候補が提示され、それと結びつく代表的な名詞が例示されます。また、iPhone4で「くびをしめる」とかな入力して、漢字変換したとします。この文言の場合、「首を絞める」が適切です。ところが、「首を閉める」や「首を占める」も候補として示されてしまうのです。これらの動詞に「首」という名詞が連結することは慣用的にあり得ません。
第二が用例の多さです。普及版タイプの辞典と同じ程度の1304ページでありながら、連結例20万超、例文4万5000超も収録されています。コロケーションや例文からしか理解できない言葉のニュアンスや語法が示されています。
辞典の本文から一部を引用しても、全体像がうまく示せません。そこで、研究社からネット書店アマゾンに寄せた次のコメントを紹介します。
本辞典では、例えば「~が乱れる」とつながる語を「列、秩序、規律、周期、足並み、順番、命令系統、国、世の中、生活、風紀、心、集中力、ダイヤ、脈拍、呼吸、心電図、レーダー、画像、データ、線、リズム、字、筆跡、足跡、室内、ベッド、服装、着物の裾、浴衣姿、襟、髪、言葉」と明示したり、「とる」という見出し語では漢字の「取る、獲る、採る、捕る、執る、撮る、録る、摂る」の使い分けを例文を用いて明示し、「自由」の合成語には、「自由化、自由人、自由裁量、自由世界、自由競争、自由経済、自由主義、自由思想、自由意志、自由恋愛、自由結婚、自由行動、自由設計、自由放任、自由民権運動、自由主義者、自由労働者、自由形、自由業、自由詩、自由律、自由気儘な、自由勝手な、自由自在な、自由奔放な、不自由、何不自由ない、不自由する…」などがあることが分かる大変ユニークな辞典です。
このように語と語の組み合わせを数多く例示してそのニュアンスを浮き上がらせています。日本語の暗黙知を明示化して、外国人の学習に効果的に編纂されているのです。。
この辞典の刊行が2012年なのだから、コロケーションによって2011年発表の『舟を編む』を批判するのは、公正ではないという憤りがあるかもしれません。けれども、2006年に金田一秀穂杏林大学教授監修による『知っておきたい 日本語コロケーション辞典』が刊行されています。金田一教授は外国語としての日本語という視点から多数の著作を刊行し、マスメディアにもよく登場します。2000年代半ばからコロケーションが日本語辞典編纂の原理に加わっているのです。
『舟を編む』ではある人物による編纂作業に焦点が当たっていますから、おそらく執筆過程はこうです。個人的動機から辞書制作についての仮説を立て、それを取材や調査によって修正し、作品に仕上げたというものです。個人的動機と言えるのは、暗黙知としての日本語を明示化する認識が見られないからです。他者による疑問に直面していないのです。
この小説を読むと、従来の日本語辞典の編纂の苦労を知ることができます。けれども、それが通時的・共時的相対化がされていないので、他の辞典とどう違うのかわからないのです。辞典編纂と言えば、サミュエル・ジョンソンがまず思い浮かびます。従来の日本語辞典の編纂がその体系にどう位置づけられるか問われていません。作品が自己完結しているのです。
『舟を編む』はヒューマン・ドラマと見なせるでしょう。ヒューマン・ドラマは、本来、ある人物を通じて社会の一面を浮き彫りにするものです。社会はつかみどころがありませんが、個別的な事例を扱うことで、ある側面が具体化されるのです。価値観が多様化・相対化・脱制度化していく中、人々は表現行為を理解する共通認識として社会に依拠せざるを得ません。異なる価値観と葛藤しながら、社会をどのようにしていくべきかを考えなくてはならないのです。ヒューマン・ドラマはそうした認識の相対化をもたらします。
けれども、この作者を含め日本の作家は往々に社会の中という枠組みを後退させ、人物に焦点を当てて描きます。主人公の扱いは主観的になりますから、作者の価値観に帰依した人物になります。作者の思いを読者に直接伝達し、感性に訴えかけて、その価値観の自覚を促す作品です。心の琴線に触れ、読者は感動するわけです。しかし、こうした感動作品は、社会を共通基盤する意識が希薄ですから、異なった価値観とどのように折り合いをつけるかに考えが至りません。感動作品は、場合によっては、異質さを強調してそれを排除することに機能するのです。そうした創作はコミュニティづくりであり、感動を共有する人たちの間で自己完結してしまうのです。
それにしても、秀穂コロケーション辞典の刊行は感慨深い話です。祖父京助、父春彦も日本語辞典の監修・編纂で知られています。金田一の3代目が日本語人による日本語人のための日本語についての辞典を克服する試みに取り組んでいるのです。この親子3代を見ているだけで、日本語をめぐる歴史の流れを理解できます。
第三がルビの多用です。説明は不要でしょう。これは非ネイティブを読者対象にしているからです。小さいことですが、大切な察しです。
コロケーションに基づく日本語辞典の刊行が画期的だとしても、よく考えてみれば、不思議です。日本における外国語教育のシェアは英語がトップです。多くの日本語人にとって、英語は母語ではありません。英語学習の際に、コロケーションが必要なはずです。けれども、そうした記憶があまり思い浮かびません。
実は、英英辞典は以前から項目に対して用例が多い傾向があります。1979年に桐原書店より出版された『ロングマン現代英英辞典〈普及版〉』は収録語5万5000に対して、用例6万9000です。英英辞典を使っていれば、コロケーションという概念を知らなくても、それを体感できていたことでしょう。「コロケーション」が英和辞典のタイトルでも見かけるようになったのは、90年代からです。ジャパンタイムズより刊行された木塚晴夫編『英語コロケーション辞典 動詞+名詞』(1995)がその代表です。その後、2010年前後から本格的に採用されるようになっています。
日本語人は中学や高校で英語を勉強しているのにできるようにならないとしばしば嘆きます。しかし、非ネイティブが母語話者のように英語を使えないのは自然なことです。むしろ、それだけ学びながらも、日本語人が英語をわかっていないことが問題なのです。英語を学習するには「できる」ではなく、「わかる」を中心にすべきなのです。
言語学習における「できる」と「わかる」をコロケーションの観点から描いた作品があります。それは手塚治虫の『鉄腕アトム』です。
1976年の小品「偏差値王国との対決」の中でコロケーションが登場します。これは『舟を編む』のような感動作品ではなく、社会的作品です。偏差値によって社会を管理するコンピュータにアトムが「ものを言うカネ」や「鼻薬」、「袖の下」の意味がわかるか問いかけます。実は、アトム自身もこれらの意味を理解していません。お茶の水博士が「カネがものを言う」や「鼻薬をかがせた」,「袖の下をにぎらせた」と言っていたのに、こう改変してしまいます。ところが、自らの優秀さ、すなわちできることを誇るコンピュータは答えられないことを苦にして自壊してしまうのです。アトムを含め、コンピュータは暗黙知を理解できません。そうするには、明示化する必要があります。言語の暗黙知をコロケーションから捉えた手塚治虫の洞察は並々ならぬものです。
日本語はもう日本語人だけのものではありません。それが現代の社会です。暗黙知のままでは十分でなく、明示化する必要があります。そうして日本語をネイティブと非ネイティブと共有できるのです。外国人に使い勝手のいい日本語辞典は日本語人にもわかりやすいのです。日本語人にとって重要なのは外国語としての日本語という認識です。母語にそう向かう時、日本語に対する理解が深まることでしょう。外国語としての日本語の意識を持った人なら、一般の日本語辞典を眺めるだけでも、こんなことにも気がつくのです。
日本語の辞書というのは「あい(愛)」から始まるわけです。では、最後の言葉は何かというと、「わ」「ん」で終わるので、だいたい「わんりょく(腕力)」という言葉で終わります。日本語の辞書は「愛」で始まり、「腕力」で終わるのです。
では、真ん中は何か。これは電子辞書では絶対できないことですが、実際に紙の辞書をぱらぱらとめくってみると、「あいうえお かきくけこ さしすせそ」のあたりで半分がすぎてしまいます。「せ」には「せかい(世界)」という言葉があります。つまり、日本語の辞書というのは「世界」を真ん中にして「愛」と「腕力」でバランスがとれているといえます。
世界を中心にして、愛で始まり腕力で終わるのが日本語の辞書ということになりますが、実際の世界は腕力から愛の方に向かってほしいなと思います。
(金田一秀穂『オツな日本語』)
〈了〉
参照文献
木塚晴夫編、『英語コロケーション辞典 動詞+名詞』、ジャパンタイムズ、1995年
大橋理枝+ダニエル・ロング、『日本語からたどる文化』、放送大学教育振興会、2011年
金田一秀穂監、『知っておきたい 日本語コロケーション辞典』、学習研究社、2006年
金田一秀穂、『オツな日本語』、日本文芸社、2012年
手塚治虫、『手塚治虫漫画全集 251』、講談社、1982年
姫野昌子監、『研究社 日本語コロケーション辞典』、研究社、2012年
文化庁編、『外国人のための基本語用例辞典 第3版』、大蔵省印刷局、1990年
三浦しをん、『舟を編む』、光文社、2011年
『ロングマン現代英英辞典〈普及版〉』、桐原書店、1979年