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毒もみと川のエコロジー(2015)
毒もみと川のエコロジー
Saven Satow
Jun. 17, 2015
「エジプトはナイルの賜物」。
ヘロドトス『歴史』
近代以前の日本は環境にやさしい生活をしていたとしばしば言われます。けれども、民話の中には環境破壊を戒める物語が少なからずあります。民衆の間で語り継がれてきたのですから、近代ほどではないにしろ、実際に起きていて、問題視されていたと考えられます。その中に毒もみをめぐる者があります。
毒もみは現代の日本ではあり得ない漁法です。植物の根から抽出した毒を水溶液のままもしくは餌に混ぜて川の上流で大量に放流し、魚を根こそぎ殺して捕獲する方法です。乱獲の極みですが、各地で行われ、さまざまな名称で呼ばれています。
近世の民衆の道徳規範には無益な殺生を禁じる仏教思想の影響があります。しかし、毒もみへの咎めはそれだけでないでしょう。稚魚や小魚も無差別に殺すのですから、生物多様性が損なわれるどころか、川の魚が全滅する危険性があります。自然の回復力にも限界があります。毒もみを批判する民話が各地にあるということは、当時としても認め難いとされていたと思われます。
毒もみ批判の民話は、登場する人物・魚に違いがありますが、内容はほぼ同じです。あらすじは次の通りです。
数人の男たちが毒もみをしようと、山奥の川で用意を始めます。そこに、見知らぬ人物が現われ、彼らにその中止を頼みます。必要以上に魚を殺すことはないし、そもそも毒もみは川の生き物を全滅してしまうと説得します。
男たちは食事でもてなし、願いを聞き入れます。ところが、その人物が去っていくと、彼らは約束を無視し、作業を再開します。
毒もみを始めると、あっという間に川は腹を上にした魚で覆われます。男たちは大喜びで、魚を獲りまくります。その中に巨大な魚がいることに気がつきます。川の主です。
男たちは大きすぎてふもとまで運べないからここで食べることにします。腹を裂くと中から人間の食べ物が出てきます。それは自分たちが中止依頼した人物に差し出した食事です。あの人は人間に化けた川の主だと知ります。男たちは恐怖にかられて逃げ出してしまいます。祟りを恐れ二度と川に近づくことはありません。
男たちが木こりだったり、やんちゃな若者だったり、止めに入るのが僧だったり、女性だったり、主がイワナだったり、ウナギだったりなどの違いがあります。ただ、内容はほとんど同じです。ここにメッセージがあります。
見逃してはならないポイントは持続可能性でしょう。毒もみの男たちは職業的漁師ではありません。彼らは継続的に魚を獲るわけではありませんから、川の資源に対して無計画です。漁師であれば、生態系を考え、利用しない生き物を殺したり、必要以上に魚を獲ったりすることもしません。持続可能性に配慮して漁をするからです。
持続可能性は人と川との適切な関係によって成り立ちます。毒もみのせいで、人が川に近づけなくなっています。そのため、川は人が不在の環境になっているのです。両者の間に相互作用がなく、関係が健康的ではありません。
川は人間にとって自然のみならず、生活環境です。人に益も害も与えます。そこに感謝と畏怖の念があります。そうした中で人と川は相互作用をしています。その変化にお互い対応・適応し、持続可能性が実現しているのです。
この健康な関係を続けていくためには、人間に自覚と責任を持って川に接する必要があります。民話が川について語るのは、それが文化だからです。けれども、人が近づけなくなった川はそうではありません。人が川に近づけるようにそれとつきあわなければならないのは民話の中だけの話ではないのです。
〈了〉