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夏目漱石の『坊っちゃん』、あるいは幼な子の叙事詩(6)(1992)

6 坊ちゃん対生徒たち
 坊っちゃんは、自分に「いたずら」をした学生に対して、彼らの倫理や論理を次のように感じている。

 けちな奴等だ、自分で自分のした事が云えない位なら、てんで仕ないがいい。証拠さえ挙がらなければ、しらを切る積りで図太く構えていやがる。おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。然しだれがしたと聞かれた時に、尻込みをする様な卑怯な事は只の一度もなかった。仕たものは仕たもので、仕ないものは仕ないに極っている。おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘を吐いて罰を逃げる位なら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの国で流行ると思ってるんだ。(略)おれは言葉や様子こそ余り上品じゃないが、心はこいつらよりも遥かに上品な積りだ。六人は悠々と引き揚げた。上部だけは教師のおれより余っ程えらく見える。実は落ち付いているだけで猶悪るい。おれには到底これ程の度胸はない。

 「いたずらと罰はつきもんだ」と信じている坊っちゃんにとって、「いたずら」は禍を是認し、罪を是認して、それによって生じた苦悩をも是認するプロメテウスが体現したような「能動的な罪」(ニーチェ『悲劇の誕生』)である。坊っちゃんは「正義」を求めるだけではない。生徒を非難するのは自らが絶対に傷つかない位置に置いて他人を冷笑しているのが許せないからである。

 反抗によって字が形成しようとする生徒の笑いとは概して反治世主義的な冷笑であって、それをとやかく言うことは、大人気ない。しかし、不健康なものに対して不健康と言う健康さこそ真に大人のすることである。学生たちは、坊っちゃんにとっての倫理や論理の価値評価の原理は直接的で能動的な力の自己規定に基づいているのに対して、まず否定の評価を提示し、その反動として物事に対する判断基準を立てる。学生たちの倫理や論理の原理は反動的・消極的なもので、坊っちゃんに対するアイロニーによって、表われてくるものにすぎない。坊っちゃんはからかわれやすいが、それは彼が強者だからだ。明るく蹴っても踏んでも少々のことでは死なないような生命力の強い人間は、弱者から、その無力さをごまかすために、からかわれやすいものである。

 坊っちゃんには一切の自意識が排除されている。そのため、自己の絶対化や自己の正当化といった自意識の倒錯がなく、「単純」ではあるけれども、素朴ではない。自分自身の力をよく認識、つねに最善を尽くし、それでも成し遂げられないことはあるがままを認めることである。坊っちゃんは自分の生き方やその充実感を他人の評価だけから判断することなく、その基準を自分自身のうちに持っている。それは自尊感情である。坊っちゃんは、「親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う」と言っている。彼には他社と比較して優越感を得ようとする自尊心がない。他方、生徒たちは、その受動性ゆえに、「能動的な罪」から逃避する。坊っちゃんは、彼らと違い、知性の軽蔑者ではない。

7 坊ちゃん対うらなり・山嵐
 第四のカテゴリーに属するうらなりと山嵐の倫理と論理は、赤シャツ・野だや生徒たちのそれよりも、坊っちゃんのものと密接に関連している。

 その関連はニーチェが『ツァラトゥストゥラ』において語った「三段の変化」のことである。

 わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。
 精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。
 どういうものが重いものなのか? と辛抱づよい精神はたずねる。そして駱駝のようにひざを折り、たくさんの荷物を積んでもらおうとする。どういうものがもっとも重いものなのか、古い時代の英雄たちよ? と辛抱づよい精神はたずねる。わたしもそれを背負い、自分の強さを感じてよろこびたい。
 わが兄弟たちよ! なんのために精神において獅子が必要なのであろうか? 重荷を背負い、あまんじ畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか?
 新しい価値を創造する、--それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれること--これは獅子の力でなければできない。
 自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。
 新しい価値を築くための権利を獲得すること--これは辛抱づよい、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。
 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のために獅子が必要なのである。
 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?
 幼な子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。

 うらなりは「駱駝」で、山嵐は「獅子」であり、坊っちゃんは「幼な子」である。「駱駝」は「多くの重いもの」、すなわち思想上の重荷を負い、それに「辛抱強い」精神でもって耐え、そのことによって自らの「強さ」を感じるものである。だが、「孤独の極みの砂漠」の中、第二の変化が生じ、「駱駝」から「獅子」へと精神は移行する。「獅子」は「自由」な精神である。それは自分の背負っていた重荷がいかなるものであるかを解明・認識し、この「巨大な龍」と闘うようになる。しかし、「最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬ」ことを認識する「獅子」は「新しい価値を築くための権利を獲得する」ことはできても、それを創造することは不可能である。「新しい価値」を創出するためには、「獅子」から「幼な子」へと精神はさらに第三段目の変化をする必要がある。

 「幼な子」は「無垢」と「忘却」の力を持っている。その力によって「幼な子」は「然り」という「聖なる」言葉を持つに至る。「創造の遊戯」のためには、「聖なる肯定」、すなわち「然り」がなければならず、その肯定によって「自分の意志を意志する」時、「世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」。「幼な子」は生がどれだけ生き難いものとして現われても、にもかかわらず、過ぎ去った一切のことを「忘却」して、つねに現にある瞬間瞬間を最大限に生きようとする「無垢」に立ち返る力を持っている。「幼な子」になるとは、この「無垢」の力に立ち返ることである。「獅子」や「駱駝」はまだ反動的な評価の圏内にいるが、反動的な力を克服している「幼な子」はよいことを求め、わるいことは「忘却」する。「幼な子」は他人にとってよい子ではなく、自分にとってよい子になろうとする。ただたんに深くまたは広く物事を認識する精神の力よりも、「生」に対する「聖なる肯定」によって「新しい価値」を創造することこそが必要だ。

 うらなりや山嵐、すなわち「駱駝」や「獅子」にとっては、『坊っちゃん』の結論は敗北になるだろう。しかし、それは、「無垢」に戻る力を所有した「幼な子」たる坊っちゃんにとっては、決して敗北ではない。なぜなら、彼は過ぎ去ったすべてを「忘却」するからである。山嵐はうらなりを助けているが、坊っちゃんはほとんど助けることなどない。それは、「獅子」にとって「駱駝」はその前段階である。けれども、「駱駝」は「幼な子」へと一気に変化することはできない。坊っちゃんと山嵐とは教頭たちを殴った理由は違う。山嵐は「神聖な否定をあえてすること」のために、一方、坊っちゃんにとっては「自分の意志が意志する」から、二人は赤シャツや野だを殴る。


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