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傷ついた果実たち─寺山修司の抒情詩(1)(2002)

傷ついた果実たち
─寺山修司の抒情詩
Saven Satow
Oct. 31, 2002

「芸というものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」。
近松門左衛門『難波土産』
“The less justified a man is in claiming excellence for his own self, the more ready he is to claim all excellence for his nation, his religion, his race or his holy cause".
Eric Hoffer “The True Believer”

1 俳句と短歌
 江戸時代中期、『世界項目』という演劇作成マニュアルが刊行されている。『忠臣蔵』とその外伝である『四谷怪談』は、そこにあげられている『太平記』巻二十一の「塩冶判官の慙死(えんやはんがんのざんし)」をモチーフにして執筆されている。戯曲の作者も、演じる俳優も、劇場に足を運ぶ観客もこの背景を承知して、楽しむのが当時の姿である。日本文学には本歌取りの伝統があるが、それは、このように、別に短歌に限定されるわけではない。

  にもかかわらず、寺山修司は、早稲田大学在学中の一九五四年、第二回短歌研究新人賞に輝いたものの、既存の俳句をモチーフにして短歌にアレンジしたため、非難にさらされている。中井英夫の『黒衣の短歌史』によると、一九五三年の斎藤茂吉と折口信夫の死去に伴い、歌壇は暗澹たる状況に陥っている。さらに、中井は、この当時、若いのに短歌をつくるなどというのはよっぽどどうかした人であって、『短歌研究』が新人の短歌を募集したが、選者の彼は、まったく期待していなかったと告げている。ところが、第一回に応募してきた中城ふみ子が川端康成から絶賛され、歌壇は盛りあがりを見せ始める。寺山修司はその次の第二回に応募している。しかし、寺山の短歌は、選者にとって、あるときは「金貨」に、あるときは「偽金」に見え、判断がつけにくく、中井は花壇の「小姑根性」をかわすために、寺山が応募してきた五〇首から一七の歌を削り、原作の表題「父還せ」を「チェホフ祭」へ変更している。

 寺山修司は「入選者の抱負」を次のように書いている。「僕は決してメモリアリストではないことを述べようと思う。僕はネルヴァルの言ったように『見たこと、それが実際事であろうとなかろうと、とにかくはっきりと確認したこと』を歌おうと思うし、その方法としては(略)新即物性と感情の接点の把握を試みようとするのである。僕は自己の〈生〉の希求を訴える方法として、飛躍できる限界内でモンタージュ、対位法、など色々と僕の巣へ貯えた」。受賞後、グレン・グールドの演奏を彷彿とさせるこの「飛躍できる限界内でモンタージュ、対位法」が、中井の心配通り、歌人たちの間で議論になってしまう。

 寺山修司は短歌ではなく、俳句から出発している。『青春句集・五月の鷹』において、一五歳から一九歳まで俳句に熱中したが、二〇歳になると冷めてしまい、その理由がわからないと言っている。彼は俳句にかなり熱心にとりくみ、この時期、同世代の連中に呼びかけて全国的な同人誌を発行したり、俳人に会いにいったりしている。「天才の個人的創造でもなく、多数の合成的努力の最後の結果でもない、それはある深い一つの共同性、諸々の魂のある永続なひとつの同胞性の外面的な現われにほかならないから」(ウラジミール・ウェイドレー『芸術の運命』)。寺山修司は、『青春句集・五月の鷹』において、当時の俳句について、「こうした一連の句に共通しているのは、翳りのなさである。それは、私の単独世界であるよりは『少年の世界』の一般的な表出にすぎなかった」と述懐している。

 寺山修司は、『誰か故郷を想はざる』において、俳句を始めたきっかけを次のように述懐している。

 中学から高校へかけて、私の自己形成にもっとも大きい比重を占めていたのは、俳句であった。この亡びゆく詩形式に、私はひどく魅かれていた。俳句そのものにも、反近代的で悪魔的な魅力はあったが、それにもまして俳句結社のもつ、フリーメーソン的な雰囲気が私をとらえたのだった。

 そこに働く物理的変化は、三十日周期で実にはっきりと上下して行くので、投稿者は自分の作品の実力ばかりではなく、選者への贈り物、挨拶まわりにも意を払うようになる。十七音の銀河系。この膨大な虚業の世界での地位争奪戦参加の興味は、私に文学以外のたのしみを覚えさせた。私は、この結社制度のなかにひそむ「権力の構造」のなかに、なぜか「帝王」という死滅したことばをダブルイメージで見出した。

 彼にとって、俳句は倒錯的なデカダンスを味わわせてくれるものであり、たんなる文学ではない。それは「ふりかえってみると口髭のように勤厳で、滑稽なのであった」。俳句から短歌への転回はその倒錯性を徹底化するためである。寺山修司は、『空には本』の「僕のノオト」において、「短歌をはじめてからの僕は、このジャンルを小市民の信仰的な日常の呟きから、もっと社会性をもつ文学表現にしたいと思いたった。作意の回復と様式の再認識が必要なのだ」と挑発的で論争的な発言をしている。「儀式」としての短歌はデカダンス以外の何ものでもない。

 寺山修司は、柄谷行人との対談『ツリーと構成力』において、「俳句の場合、たとえば西東三鬼の『赤き火事哄笑せしが今日黒し』でも、島津亮の『父酔いて葬儀の花と共に倒る』でも、一回切れるでしょう。そこに書いていない数行があるわけですよね。要するに系統樹は見えない。そこが読み手によってつくり変えがきく部分を抱えているんじゃないかと思う。短歌は、七七っていうあの反復のなかで完全に円環的に閉じられているようなところがある。同じことを二階繰り返すときに、必ず二度目は複製化されている。マルクスの『ブリュメール十八日』でいうと、一度目は悲劇だったものが二度目にはもう笑いに変わる。だから、短歌ってどうやっても自己複製化して、対象を肯定するから、カオスにならない。風穴の吹き抜け場所がなくなってしまう。ところが俳句の場合、五七五の短詩型の自衛手段として、どこかでいっぺん切れる切れ字を設ける。そこがちょうどのぞき穴になって、後ろ側に系統樹があるかもしれないと思わせるものがあるんじゃないかな。俳句は刺激的な文芸様式だと思うけど、短歌っていうのは回帰的な自己肯定が鼻についてくる」と言っている。

 これは彼の短歌と俳句に関する考えを要約している。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、二〇〇一年五月二十一日、イェール大学で、失言が多いという評判に対して、「私は完璧な古代俳句の形式とリズムで話しているのです(I’m speaking in the perfect forms and rhythms of ancient Haiku)」とスピーチしている。寺山修司は『黄金時代』の中で「現代百人一首」を試みている。しかし、「以前から一度やってみようと思っていた」にもかかわらず、「現代百人一首」では、寺山修司は短歌を選ぶのに、かなり苦労している。「『これが俳句なら』と私は思った。俳句ならば、やすやすと百人選ぶことも百句選ぶこともできたことだろう。それは、単に私の嗜好の問題にとどまるものではない。俳句は、おそらく、世界でもっともすぐれた詩型であることが、この頃、あらためて痛感されるのである」。

 寺山修司の俳句において、季語はほぼ便宜的につけられており、その句に対する必然性を必ずしも持っていない。彼の季語には経験的詩学としての効果以上の意味はない。彼にとって重要なのは、短歌と俳句の違いを「七七」に求めているように、「形式とリズム」であって、言葉ではない

 寺山修司は、中村草田男に影響されて、次のような句をつくっている。

みなしごとなるや数理の鷹とばし
秋は神学ピアノのかげに人さらい
法医学・櫻・暗黒・父・自瀆

 寺山修司の短歌や俳句は、このように、ときとして、「腰折れ詩(doggerel)」になっていることも少なくない。けれども、「腰折れ詩は必ずしも愚劣な詩ではない。それは頭の中で無意識的にはじまり、連想過程を通らずじまいの詩であって、動因は散文のそれであるのに、意志の力によって連想的になろうと焦っている詩なのである。偉大な詩が意識下で克服する、その同じ困難を腰折れ詩はさらけ出す。脚韻や韻律の都合で語句を無理やりひきずりこんだり、脚韻語に縁のある観念を引きずりこんだりする様子がわかる」(ノースロップ・フライ『批評の解剖』)。

 寺山修司は、『ツリーと構成力』の中で、五七調と七五調について、五七調が内向的であり、七五調は外向的であるから、七五調のほうを好むと言っている。七五調は、五七調に比べて、リズミカルであり、そのため、軽く感じられ、内向的には聞こえない。寺山修司が短歌を「回帰的な自己肯定」と非難するのは、七七がリズムを損ねるからである。

 俳句好きでありながらも、歌人として世に知られた寺山修司は、『われに五月を』の後、第一歌集『空には本』(一九五八)、『血と麦』(一九六二)、『田園に死す』(一九六五)、前記の作品すべてと未刊歌集『テーブルの上の荒野』を収録した『寺山修司全歌集』(一九七一)を刊行している。『全歌集』を出版する際、短歌をもうつくらないと「歌のわかれ」を宣言し、以降、これは守られる。

 「歌のわかれをしたわけではないのだが、いつの間にか歌を書かなくなってしまった。だから、こうして『全歌集』という名で歌をまとめてしまうことは、私の中の歌ごころを生き埋めにしてしまうようなものである。このあと書きたくなったからと言って、『全歌集』の全という意味を易く裏切る訳にはいかないだろう。(略)ともかく、こうして私はまだ未練のある私の表現手段の一つに終止符を打ち、『全歌集』を出すことになったが、実際は、生きているうちに、一つ位は自分の墓を立ててみたかったというのが、本音である」。

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