ハロー、レーニン!(5)(2007)
5 ネップとレーニン主義
同志諸君、ネップは、現在から見れば、鄧小平の社会主義市場経済(開発独裁との類似点を指摘するものもいるが、それはマルクス主義の持つ歴史への位置づけを見ていない意見である。スハルトが自分の政治を世界史の枠組みの中で語っていただろうか?)に非常によく似ている。毛沢東こそマルクス=レーニン主義者だと口にする者もいる。けれども、そうではない。鄧小平は文化大革命期に資本主義に走ったと教条主義者から非難されたが、この点で、レーニン主義の正統的な継承者であると言わねばならない。
森毅は、『男味と女味─集中と分散について』において、鄧小平の意義を次のように述べている。
〈男味〉の代表例は、太平洋戦争中の帝国陸軍だろう。戦後は、旧帝国陸軍の精神的な残党が、そのメンタリティで経済戦争に突入したのだと言われている。敵から見ると、旧日本軍は進む道を決めたら、他の道の可能性を考えようとしなかったので、非常に扱いやすかったらしい。一筋にやっていくことが最高の価値である、と考えたのが帝国陸軍だった。みんながこうと決めたときに他のことを考える奴は放り出される。〈男味〉の立場からすると足並みを乱すことはゆゆしきことなのだ。
しかし、〈男味〉ではゲームには勝てない。ゲームというのは、状況によって態度や決定が変わるのが当然なのだ。あいつはグーを出し始めたらグーを出し続けるとわかってしまったら、もう絶対に勝てるわけがない。グーもチョキもパ l も出すかも知れないから、ゲームが成立するのだ。
それに比べて、中国の元共産党副首相・部小平はすごいなと思う。
彼は、「わたしの最大の発明は、二者択一の決定を議論して決めないことだ」という。議論で決めていたらとても間に合わない。さしあたり A が出たら A をやる。その代わり、いつでも B に変わる用意はしておくのだという。こういう選択は、 A 一筋で進むよりずっと難儀なのであるが、実際にはとてもフレキシブルだと思う。この考え方は社交主義に通じるものがあると思う。社交というものには、選択肢を相手によって変えるという柔軟性が要求される。従って社交の基本は〈女味〉なのである。
一方、社会主義のほうのソーシャリズムは〈男味〉が基本だ。組織の継続性が大切になるからだ。郡小平のすごいところは、〈男味〉の極致のようなギンギンの社会主義国である中華人民共和国というシステムのトップに昇りつめながら、自分の基本原則が〈女味〉であると公言してはばからなかった懐の深さにある。
鄧小平はレーニン主義を復活させている。レーニンの実践にも、集中と分散の弁証法が見られる。一方的な集中でも、分散でも不十分である。ネップによる分散を承認しつつ、他方で党倍部の集中を強化している。これは一つの弁証法である。二月革命の継承者にしろ、プーチン派にしろ、この弁証法の認識がない。彼らは極めて単調である。「〈男味〉が強すぎると、一旦立てた計画に拘って融通が聞かなくなってしまう。一方、〈女味〉には危ない部分があって、状況に流されてどっちへ行くかわからなくなって、おまけにその時に責任の所在がわからなくなったりする」。ネップの分散という政策の決定に権限が必要である以上、責任の所在を明確にしなければならない。そこに党の存在理由がある。映画監督(英語では、ディレクター、すなわち指導する者である!)が作品にそうするように、党は政策に責任を負わねばならない。失敗したときには責任を誰かに押しつけ、うまくいったら、手柄にするのは言語道断である。
同志レーニンの最も偉大な点の一つは、彼が自説に拘泥しなかったことである。その都度、歴史上にマルクス主義的に自分自身を位置づけながら(これが日和見主義者と区別される一因である!)、意見を覆す。「臨機応変」や「変幻自在」、「君子豹変す」は彼にふさわしい。ゲームにおいて、勝利は相対的である。自分の手に固執するのは賢明ではない。多くの社会主義者や革命家は自説に拘泥する。学者はそれで構わないが、政治ではそうはいかない。自分の手ばかり見ていては、連荘の対面でテンパってばかりで、いつまでたってもドベが指定席だ。また、相手のミスを期待して、勝負に出るとしたら、ずいぶんとのんきである。敵は失敗してこないという前提で、作戦を練るものだ(自然発生的な革命論は、相手のミスを期待して、ゲームを進めようとしているにすぎない!)。
国際政治を例にしてみよう。そこは仁義なき戦いの世界である。つまり、利害で動く。意外なほど目先の利害で動くものだ(最近、脱イデオロギーや左右を超える認識を新しい視座として提唱するものがいる。しかし、国際政治の場では、イデオロギー対立も左右の対立もはるか昔に終わっている。ポル・ポト派を誰が支持していただろうか?)。しかし、相手が何を求めているかを探らずに、自分の利益を追い求めていては失敗する。同志スターリンはアドルフ・ヒトラーと独ソ不可侵条約を結び、蒋介石を支援している。これは間違いなくイデオロギー的には誤っている。しかも、その後、ドイツ軍に攻めこまれるわ、国民党軍は台湾へと追いやられるわとお粗末極まりない。これは現実的にも間違っている。彼の見通しの甘さがソヴィエトを国家存亡の危機に陥れている。
同志レーニンの軌跡は極めてマルクス主義的である。これを発展と見るべきではない。複雑に入り組んだ現実と権力闘争の末、彼の説がヘゲモニーを獲得している。同志レーニンの理論が正しいから勝ったのではない。勝ったから彼の理論は正しくなる。マルクス主義はボリシェヴィキのロシア革命を通じた権力掌握によってその正当性が浸透したのであって、その逆ではない。勝ったものが正しい。それが政治である。政治は権力闘争により、ヘゲモニーを握った方が正統派となる。
けれども、異端は組織にとって必要である。他の選択肢は保険のためにとっておいた方がよい(独裁体制は人民もさることながら、政権にとって逃げ道がなくなる!)。同志レーニンは、とりあえず選択した方針が間違いもしくは時期尚早だと気づいたら、即座に異端の説も吸収し、それを示す。彼は自分自身を変えることができたために、体制も変えられる!