新井政談(7)(2022)
7 『折りたく柴の記』
ここまで何度も、白石が近代と違う前近代の発想原理から理解して体系に知識を位置づけて理論・行動を展開していると強調してきたが、それが我田引水の主張ではないと端的に示すものがある。それが『折りたく柴の記』である。
『折たく柴の記』は白石が政界引退後の享保元年(1716年)頃に執筆した全3巻構成の自叙伝である。上巻は、白石の祖父母や両親の伝記、自身の生い立ちから事績、すなわち家宣の将軍世継時代までの出来事が記されている。中巻には自らが側用人《そばようにん》間部詮房《まなべあきふさ》と共に献身的に補佐した6代家宣の政治的レガシーを記録している。下巻には幼君7代家継時代の業績を記述している。祖先および自分自身の事績、主君の家宣・家継の善政を後世に伝えることを白石は意図している。
白石は書名について言及していないが、これを読む人であれば、『新古今和歌集』巻第八「哀傷歌」の後鳥羽天皇による「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」を知っていて当然なので、あえて記す必要もない。前近代の創作は転居に基づくので、鑑賞も同時代的著作のみならず、規範となっている古典を共有していることが前提である。前近代の文芸は古典に代表される規範を共有し、創作・鑑賞を通じて美意識を交歓するものである。
こうした前近代の発想は当時の人々にとって自明である。そうした時代の思想を考察する際にはその暗黙の前提を明示的に理解しておく必要がある。
いかに自明であるかの例を挙げよう。前近代の発想は伝統的な書道の入門法にも具現されている。書道の学習の基本は古典を手本として見習って書く「臨書《りんしょ》」である。それには形臨・意臨・背臨の三種類が含まれる。形臨は技術の体得が目的である。古典の字の形を真似ることに重点を置く。自分の個性を出さずに、手本に忠実な字形や用筆法を模倣する。意臨は手本を書いた作者の意図を汲み取ることを目的とする。ただし、この意図はたんに作者の考えだけを指さない。作者の来歴やその歴史的・社会的状況も含む。それを念頭に置き、作者になりきって書くことが意臨である。背臨は手本の書風を自分のものとして取り込むことを目的とする。それは、手本を見た後、記憶通りに書くことである。そのため、背臨は暗書(あんしょ)とも呼ばれる。こう見てみると、臨書は先に言及した儒教の理想の政治の考えと同じ発想だとわかるだろう。
手本を参考にせず、自分の創意工夫で書くことを「自運《じうん》」と言う。これは臨書の対義語ではない。自運したとしても、古典によって相対化し、それを対象化して反省的に評することが創作には不可欠だからだ。古典は衝動の世界において規範としtr共有されている。それを共通認識として創作・鑑賞が成り立つ。古典を配慮しない自己表現など前近代にはありえない。
『折りたく柴の記』は明治10年代に書籍として出版され、広く読まれるようになっている。近代以降の白石に関する高い評価はこれによるところが大きい。桑原武夫は『折りたく柴の記』を現代語に訳し、日本最初の「自伝文学」と呼んでいる。それはこの回想録が近代の告白につながる最初の作品だということを意味している。桑原武夫は近代との連続性の中で位置づけているが、むしろ、『折りたく柴の記』は前近代的告白である。読むべきは近代と異なる前近代の発想だ。
ノースロップ・フライは『批評の解剖』において散文フィクションを「近代小説」・「ロマンス」・「告白」・「アナトミー」に分類している。それによると、「告白」は次のようなジャンルである。
「告白(Confession)」は「私」や「私というもの」を語る。古くは『ソクラテスの弁明』やアウグスティヌスの『告白』にまで遡る。このジャンルを最も象徴するジャン=ジャック・ルソーの『告白』が示している通り、近代的な告白は「私とは誰か」というアイデンティティ探求の文学である。フランス革命の理念に基づくフィヒテ哲学は、文学的に突きつめれば、告白そのものであって、小説と別の面であるが、これは近代でも衰えることはない。告白は自伝や日記、書簡、伝道なども含み、傾向は内向的・知的である。扱い方は主観的であるが、自己省察を続けながら、哲学や宗教、医学、政治、芸術、科学、法学、倫理などに言及され、ただなんとなくそうしたかったからではなく、告白するにたる理由がそれによって明らかにされる。時に、語り手は悩みを抱えていたり、病んだ心の持ち主だったり、神秘体験をしていたりする。また、文学的資質や修練に乏しい政治家や企業経営者、役人、芸術家などが優れた告白を記すことも稀ではないし、今日では、ブログとして多くの人々が発信している。精神性という点では、近代小説と並んで、高い。「エッセイ(Essay)」は筋のない告白であり、その短編形式である。
告白は古来より続くジャンルであるが、前近代と近代とでは大きな違いがある。前者が共同体の認める規範に基づく私を語るのに対し、後者は個人における意識の発展や精神的成長、人格形成、価値観の発見を描く。前近代は共同体主義の時代である。共同体が個人に先行する。政治は道徳=宗教と分離しておらず、その目的は規範の認める徳の実践である。個人の幸福はそれに従ってよい生き方をすることだ。ソクラテスの『弁明』やアウグスティヌスの『告白』を代表とする前近代の告白はそうした徳の実践をする私が語られる。一方、近代は政教分離に伴い、価値観の選択が個人に委ねられている。個人主義の告白はであるから、共有される徳の実践の回想である必要はない。時代的・社会的背景と関連付けながら、自らの人格形成や精神性発達、業績などを語る。それは自由で平等、自立した個人が近代社会の中で発達論的な人生行路である。
近代において読者との間で共有されているのは規範ではなく、近代人としての内面である。近代的告白では内観による精神的発達のドラマが展開される。倫理について語ることはあっても、それはあくまで個人的理解であって、共通基盤ではない。従来の道徳に反していても、内省を通じて新たな価値観として提示することも少なくない。
近代的告白の先駆とされているのが『チェッリーニ自伝―フィレンツェ彫金師一代記(La vita di Benvenuto Cellini)』である。作者はベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini)で、ルネサンス期のイタリア画家・金細工師・彫刻家・音楽家である。 1500年生まれのチェッリーニは、58歳の時、ジョルジョ・ヴァザーリの『芸術家列伝』(1550~58)に刺激されてこの自叙伝を書いたとされる。
内容は、ライバルとの確執、法王を始め権力者との駆引き、旅、戦争、女、殺人、投獄などで、自らの才能への自負心とギラギラとした野心といった強烈な個性が作品にみなぎっている。古典的な告白とは一線を画している。ただし、自伝が出版されたのは宗教改革の進展する当時ではなく、1728年で、欧州で広く受容されるのは18世紀後半に入ってからである。ルソーやスタンダールが熱烈に支持、ゲーテは解説・註を添えたドイツ語訳を刊行している。このように、チェッリーニは18世紀に発見されたのであり、同時代的影響はあまり認められない。18世紀後半に執筆・出版されたジャン=ジャック・ルソーの『告白』が実質的にはこのジャンルのエポックメイキングである。
こうした告白の流れを日本文学史に照らし合わせてみよう。鴨長明の『方丈記』は、五大厄災や筆者の前半生に言及した後、方丈の庵での仏教道徳に従った理想の生き方の実践を語る。これはアウグスティヌスの『告白』のような古典的告白である。他方、福沢諭吉の『福翁自伝』や内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、作者自らの体験を通じて従来の道徳に対する違和と新たな価値観の獲得を述べている。これらは個人が共同体の規範から自立して人格形成していく過程が描かれるなど近代的告白である。
白石の『折りたく柴の記』は古典的告白であって、近代的ではない。当時、幕府の公認するイデオロギーは朱子学である。白石はそれに沿った倫理的生き方をしてきたことを綴っている。儒教において私は先祖あっての自分であるから、その言及を欠かすことなどできない。また、政治において朱子学の説く理想を実現しようとその徳の実践に取り組んでいたと回想する。さらに、執筆動機は後世への参考という公的目的である。白石は前近代における理想の姿勢で記しており、近代的告白とは遠く離れている。
我八歳の秋、戸部《こほう》の上総国にゆき給ひしあとにて、手習ふ事を教へしめらる。其冬の十二月半ば、戸部帰り参り給ひしかば、常に傍(かたわら)にさぶらふ事もとの如し。明けの年の秋、また国にゆき給ひしあとにて、課を立てられて、「日のうちには行草の字三千、夜に入りて一千字を限りて書き出すべし」と命ぜられたり。冬に至りぬれば、日短くなりて、課いまだ満ざるに、日暮んとする事たびた〳〵にて、西向なる竹縁のある上に机をもち出(い)でゝ、書終りぬる事もありき。
また夜に入りて手習ふに、睡(ねむり)の催して堪(たえ)がたきに、我に付けられし者と密(ひそか)にはかりて、水二桶づゝ、かの竹縁に汲置かせて、いたくねぶりの催しぬれば、衣ぬぎすてゝ、まづ一桶の水をかゝりて、衣うち着て習ふに、初(はじめ)ひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程経ぬれば、身あたゝかになりて、また〳〵眠くなりぬれば、又水をかゝる事、さきの事の如くす。二たび水をかゝりぬるほどには、大やうは課をも満てたりき。これ我九歳の秋冬の間の事也。
かゝりしほどに、此比《このころ》よりは、我父の人に贈り給ふ文(ふみ)をば、かたの如くには書きたり。十歳(写本によっては十一歳)の秋、また課を立られて、庭訓往来を習はしめられ、十一月に至て、「十日のうちに浄写してまゐらすべし」と命ぜられ、命ぜられし如くに事を終へしかば、冊になして戸部に見せまゐらす。褒(ほ)め給ふ事大かたならず。十三の時よりは、戸部の人と贈答し給ふ程の文ども、大かたは我に命ぜられき。
『折りたく柴の記』)
もちろん、白石以前にこれほどの分量で地震の生涯に関して回想した日本語人はいない。『方丈記』の記述は、庵の生活と違い、半生の部分は極めて簡略的で、ここだけを読んでも鴨長明のバイオグラフィーはあまりわからない。また、藤原道長を始め平安貴族は子孫に伝えるために日々の公務について日記を記しているが、人生を振り返ることはない。いずれも過去よりも現在の記録が主眼である。しかし、白石には記すべき現在がない。白石は事実上失脚しており、自ら書かなければ正徳の治における徳の実践は忘れ去られる。
エリック・ホッファーは、『現代という時代の気質』において、「作家」を生み出す重要な要因の一つが「失業」だと次のように説明している。
何世紀ものあいだ、書記は記録をとりつづけた。彼は自分の官僚的活動範囲にきちんとおさまり、苦情ももたなければ夢想もしなかった。その後、どの文明でもある時点で書記は「作家」として登場するようになる。書記に著作をはじめさせた動機を問うなら、答えはどのばあいでも同じである。つまり、書記は失業したときからものを書きはじめたのだ。
みずからが有用であるという感覚の喪失と感動的な行動へのはげしい願望が、あらゆる人々--羊飼い、農夫、官吏、将官、政治家、貴族、それにありきたりの事務官など--の内面で創造的な流れの堰を切ることがある、ということを示すにはこれで十分だろう。行動への満たされぬ願望に加えて、才能とある程度の専門的技術がなければならないことはいうまでもない。いうべきことをもたなかったり、いいたいことがあってもいうすべを知らなかったりする人々は、いかに条件がととのっていても決してものを書きはじめたりしない。
白石の執筆動機はこの通りだろう。鴨長明は、確かに、運も悪く、思ったような地位につけず、隠遁生活を始めている。しかし、それは仏教が説く理想の生き方の実践である。町名が主に書くのは過去ではなく、原罪である。一方、白石は過去において徳の実践をしてきたが、現在の生活は規範の理想から離れている。今の身でできることは実践の記録を未来に伝えることだ。これも道徳的生き方である。
原理原則に忠実であるがゆえに、場当たり的な判断や惰性で続けられてきた政策の見直しを促し、白石は新しさへの道を開いている。自伝も同様である。古典的な発想に基づいて告白を追求する結果、これまでにない長文の回想録を執筆している。それは、近代と連続していないけれども、日本における告白というジャンルの系譜の始点の一つつぃて位置づけられる。
『折りたく柴の記』はこのように白石が前近代の発想を基づいて認知・行動していることを語っている。これまで論じてきた彼の政策もここから捉えるならば、道徳的基礎付けが一貫していることは明らかだろう。共同体あっての私であり、その共有された規範に基づいてすべての認知・行動がなされなければならない。前近代の発想を近代人が理解する際に、白石の『折りたく柴の記』は最良の著作の一つである。
8 温故知新
近代において古典を読む意味はその現代的意義を明らかにすることにある。現代にいかに影響を及ぼしているか、現代の自明性をいかに相対化するか、現代に通じるものがいかにあるかといった観点から読解される。イスラム研究の先駆者など白石もそうした見方からしばしば言及される。ただ、彼は幕府の政策に関与する実力者であり、その結果責任に対する批判も少なくない。
アカデミシャンであれば、従来の成果の補足や発展、転換を提示すればよく、社会と共鳴する現代的意義を必ずしも語る必要はない。しかし、古典は研究者だけのものではない。一般の読者を相手に自らの主張を正当化するために、小林秀雄の本居宣長論のように、古典を検討する試みも多々見られる。しかし、それは近代による古典の再構築である。近代と異なった時代・社会から生まれた意義を見失う。実際、そうした読みは、予備知識が不足しているため、近代人にとっての恣意的な評価に継がることもしばしばである。
先に触れた通り、同時代人による白石に対する評価は圧倒的である。朝鮮通信使も含め、彼と直接会った人たちはその知性に驚いている。けれども、なぜ白石がこれほどまでの高い扱いを受けているのか現代人には今一つ理解されていないように思われる。それは彼らの暗黙の前提を共有していないからである。繰り返して述べてきたように、前近代と近代では政治的・経済的・社会的発想が根本的に違う。その認識が不十分なままうぬぼれて白石を読むので、現代人委はその凄さが理解できない。白石は読む者の力が試されるテキストである。
白石は暗黙の前提を踏まえた上で、基本原理をつかみ、知識を体系に位置付けて理論や実践を展開する。その際、情報はトップダウン処理され、体系を敷衍して対象領域を拡張する。同時代人は思想内容のみならず、この体系に基づく本質的思考に圧倒されたのだろう。それは江戸時代における知識人の集団知識の表象である。
白石はまれにみる体系的思考をする知識人である。局所に注目するだけでは不十分で、体系を見据えて批判する必要がある。白石の現代的儀は江戸時代における体系的思考とそれに基づく思想内容にある。
アーノルド・ホワイトヘッドは17世紀を「天才の世紀」と呼んでいる。それは新たな原理を提示する知識人が数多く活動したことに由来する。この名称はヨーロッパを指すものであるが、白石も「天才」である。ただし、彼は近代の共通基盤となる原理ではなく、共有された規範に則り体系的思考を展開している。原則に忠実であるがゆえに、論拠が不十分な古い物事を再考することを通じて新しい時代への道を用意している。それを孔子は「温故知新」と語る。
〈了〉
参照文献
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三浦伸夫、『改訂版 数学の歴史』、放送大学教育振興会、2019年
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山岡龍一、『西洋政治理論の伝統』、放送大学教育振興会、2009年
渡辺浩、『日本政治思想史[十七~十九世紀]』、東京大学出版会、2010年
国土地理院
https://www.gsi.go.jp/
国立天文台
https://www.nao.ac.jp/
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