スキル・リテラシー・フルエンシー・コンピテンシー(2010)
スキル・リテラシー・フルエンシー・コンピテンシー
Saven Satow
Sep. 01, 2010
「高みにのぼる人は、皆らせん階段を使う」。
フランシス・ベーコン
今日、あらゆる領域で、行き詰まりや情報の非対称性などの改善を目的に「社会化」・「学際化」が課題にとして取り扱われている。それは社会や他領域とのコミュニケーションの必要性を意味し、リテラシーが注目されている。リテラシーはその領域固有の通時的・共時的な知識・技能の共通基盤である。コミュニケーションはこれに基づいて行われる。
しかし、リテラシーをより明確に把握するためには、隣接概念との比較が必要であろう。すべての領域には固有の組織化が見られる。例えば、音楽は音を組織化した芸術である。その認知には、坂本龍一と友部正人の間で違うように、いくつかの種類があるだろう。組織化の認知は「スキル」・「リテラシー」・「フルエンシー」・「コンピテンシー」の四つの概念に分類できる。
第一の「スキル(Skill)」は、「体得(Master)」した「暗黙知(Tacit Knowing)」を「使用(Using)」できる能力である。主に経験を通じて会得されるため、把握は「断片的(Fragmental)」であり、他者に言語化して説明することが難しく、「自己本位的(Self-centered)」である。
第二の「リテラシー(Literacy)」は、暗黙知を「明示知(Explicit knowledge)」に可視化して、それを「学習(Learning)」し、「理解(Understanding)」する能力である。安定していなければ基盤となりえないので、認識は「静的(Static)」であるが、他者とのコミュニケーションが中心であるため、「外向的(Extroverted)」である。
第三の「フルエンシー(Fluency)」は、リテラシーを「敷衍(Amplification)」して、さまざまな環境が働きかけるまだ見ぬ可能性や未熟性を「周囲知(Ambient Knowledge)」によって「洞察(Insight)」する能力である。IT業界のように、領域の歴史が浅く発展途上だったり、非常に変化が激しかったりする場合、フルエンシーが重要視される。その認識は「動的(Dynamic)」であるが、内部のコミュニケーションが中心となるため、「内向的(Introverted)」である。
第四の「コンピテンシー(Competency)」は、リテラシーとフルエンシーを踏まえて、「創造(Creation)」を「実現(Realizing)」する「実践知(Practical Knowledge)」の能力である。知的活動は「創発的(Emergency)」で、その行為は内外に向けられるため、そこから反応が寄せる「交通的(Traffic)」である。
この四つの概念は必ずしも段階的に位置づけられるわけではない。フルエンシーやコンピテンシーの成果がリテラシーに還元され、それがまだ見ぬものを暗示する。また、かつての徒弟制度では、他者や変化をさほど意識する必要がなかった事情から、スキルとコンピテンシーが直結している。「ドット・ネット世代」と呼ばれる若年層は、幼い頃からデジタル機器に囲まれて育っている「デジタルネイティヴ」でもあり、驚くほど高いそのスキルのレベルを持っている。スキルは、そのため、領域によっては決して水準として低いわけではない。
しばしば、日本では「習うより慣れろ」と「現場」が極端に強調される。理論ばかりを研究していても、現場では通用しない。変な知識を持たないで、まず、現場に出て、体験を通じて覚えるべきだ。これは一面では正しいだろう。現場を知らないで机上の空論に陥ることがよくある。けれども、「習うより慣れろ」は自分自身の成長・発展が主目的である場面で言えることである。他者の改善や成長、向上を目的とする場面では、予備知識が欠かせない。そうしないと、とりかかりが見つからず、どうしていいのかわからず、途方にくれてしまう。それは精神医療や途上国の開発、虐待された子どものケアなどを思い浮かべればよい。深刻な状態に直面しなければならない場合、予備知識が不可欠である。
もっとも、この四つの概念の理論は日本の伝統的芸道や武術の修練と共通点がある。茶道や武道は、その上達過程を「守破離《しゅはり》」という段階説をとっている。これは千利休の訓をまとめた『利休道歌』の中の「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」を典拠としている。なお、「収敗理」と呼ぶ流派もあるが、内容はほぼ同じである。
修業は師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから始まる。師匠の教えに忠実に修業を積み重ねた者はその型を十分に理解できる。すると、他流派の型との相違点や共通点が認識できるようになる。そうした照らし合わせの上で、試行錯誤を繰り返して自分に合うよりよい型を模索する。それは既存の型を「破る」ことである。さらに、修業を重ねて、自身の見出した型も相対化できるようになる。それにより従来の型から「離れ」た新たな独自の流派が生まれる。ただし、「本を忘るな」とある通り、教えを破り離れたとしても本来の精神を見失ってはならない。基本の型を会得しないまま、いきなり個性や独創性を求めるのは「形無し」である。この「守破離」の「型:を「リテラシー:と置き換えるなら、その言わんとしていることは本論の主張と共通している。
非専門家には、フルエンシーやコンピテンシーは必ずしも必要ではない。それらは主に専門分野を発展させる能力だからである。しかし、コミュニケーションの際に、リテラシーは必須である。リテラシーを軽視するその領域の先進的な専門家もいるが、自身を相対化するために、それが欠かせない。
リテラシーを再度確認するとき、自分たちの認識がいかにつくられたものであるかを思い知る。
映像を自然に見ていながら、実は、暗黙のうちにある規則を了解してそう感じていることが忘れられている。エドウィン・S・ポーターによる1902年の映画『アメリカ消防夫の生活』を見るとき、それを思い起こさせてくれる。これは消防夫の火災現場での活躍をドキュメンタリー・タッチで描いた映画である。ある消防夫が家族のことを考えていると、そこに火事の発生が伝えられ、消防夫たちは馬車で現場に急行する。一人の消防夫が建物に入り、煙にまかれて倒れてしまった女性と子どもを部屋の窓から助け出し、別の消防夫たちが消火活動を行う。こういうストーリーである。
ところが、この救出のシーンは、現在の常識的な編集から見ると、いささか奇妙である。まず、カメラは建物の内側にあり、外から入ってくる消防夫が部屋の中の母子を救出するシーンを映し出している。それが終わると、同じ救出が建物の外のカメラからのシーンが改めて始まる。時間軸に沿って内側と外側が交互に入れ替わりながら映されていない。
こうした暗黙の了解は映画に限らない。マンガや美術、音楽、舞台、文学などにも見られるだろう。なぜこの組織化が暗黙のうちに自然に感じるのかを改めて考え直すのもリテラシー学習の一環である。ちなみに、映画における時系列の組織化の問題に大胆に挑んだのがクリストファー・ノーラン監督による『メメント』(2000)である。リテラシーを再確認し、そこからフルエンシーとコンピテンシーへ発展させている。
しばしばメディア・リテラシーが「メディアを読み解く」と言い換えられている。しかし、それでは、リテラシーからフルエンシーやコンピテンシーへの移行が考慮されていない。リテラシーは「読み解く」だけでなく、「書き伝える」能力も併せ持つ。書き伝える作業を通じて、読み解く能力を向上させることがリテラシー習得の固有の方法論である。この習得には、そのため、机上だけでなく、体験も必要となる。
リテラシーを中心に語ってきたが、スキル・フルエンシー・コンピテンシーも重要である。今、この四つの概念は相互作用している。これは、従来、こういった概念から捉えられてこなかった領域にも応用できよう。例えば、現代社会において、「市民」は大きな役割を占めている。「市民」のスキル・リテラシー・フルエンシー・コンピテンシーとそれぞれの側面から研究者が考察する手法も可能である。専門の「市民」など存在しない以上、リテラシーのみならず、フルエンシーやコンピテンシーも習得する必要がある。SLFCは組織化を考える手がかりになる。
〈了〉
参照文献
藤原稜三、『守破離の思想』、ベースボール・マガジン社、1993年。