武田泰淳の『わが子キリスト』、あるいは政治的人間の記録(3)(2007)
5 政治的人間
大方の予想通り、イエスは捕らえられ、十字架刑が決定される。おまけに、イエスが拘束される際、ユダ以外の幹部たちは自分の命惜しさに逃げてしまう。トップが不在になり、しかもユダを除く幹部全員がリーダーを裏切っていなくなってしまっては、この組織の存続は風前の灯である。
教団を救済するためにとりうる方策は二つある。一つはユダ自身がトップの座につき、一から組織を再建する道である。しかし、ユダにはイエスのようなカリスマ性がないし、フィクサーとして動いていたように、あまりにも色がつきすぎている。いい組織には、顔となるリーダーと堅実な調整役が要るものだ。もう一つは幹部を免責できる理由を見つけ、彼らの集団指導体制で組織を立て直す道である。ユダは後者を選ぶ。自分自身を最大の裏切者に仕立て上げ、幹部の責任をすべて被る。彼はあくまでもフィクサーとしての役割を貫き通していく。
その上、巷もユダが裏切者として死ぬことを次のように願っている。
イエスを憎んでいたサドカイ人、パリサイ人、熱心党、その他どの派にもぞくさない無知なユダヤ人どもが、イエスに親切にしてやるユダを憎まぬはずがないのだ。とりわけ、神殿を中心とする市場でしこたま儲けていた商人連中が、神殿の権威を否定する予言者に味方する商人ユダを、イエス以上に憎んだのはあたりまえの話さ。イエスより先にユダ本人を、十字架につけたがっていた金持ちたちもいたくらいなのだ。イエスとユダをもろともに処刑してしまうか。それができなければ、イエスにユダを裏切者として棄てさせる、あるいは、ユダが本物の裏切者になってイエスを売ってくれるか。それこそ、彼らが日夜ねらっていたうれしい結末、待ちのぞんでいた楽しき幕切れだった。イエスとユダ、新しい精神派と新しい経済派の同盟が打ちやぶられ、たがいに罵りあって分裂し自滅する呪われた日こそ、頭のはたらきのこわばった欲ぶか連中の保守主義が勝利をかちとる祝日だったのだからな。
それに、お前さんの能なしの弟子たちにしたって、自分たちの仲間の中から犠牲の子羊を一匹、裏切者として祭壇にささげておいた方が、自分たちの裏切行為の弁明のたしになると言うものではないか。
現実的に、政治には調整役や仕切り役が不可欠であるが、それには人望と経験が要る。ユダは裏切った者ではなく、裏切られた者である。人望を失った彼は、自分の置かれた状況をよく理解して、「おれ」にイエスの復活と自分を裏切者と仕立てることを依頼する。ユダがイエスの復活にこめる願いはユダヤ民族の復興である。
「ローマ帝国は滅びる。滅びたら、二度とよみがえりはしない。だが、わたしたちユダヤ民族は、かならずよみがえるのだ」。「選ばれた御方が、よみがえってくださるのだ。どうあっても、その御方によみがえっていただかなければならぬのだ。その御方たった一人の復活のために、わしらは喜んで死んで行かねばならぬのだ」。ユダヤ民族主義者でありユダにとって、イエスはあくまでもユダヤ民族のメシアである。彼はイエス自身にでも、その教えにではなく、ユダヤ民族の大儀に殉じようとしている。
ユダは自殺を試みるものの、失敗し、嫌々ながら、「おれ」が介錯をすることになる。これはユダの思惑が最後まで失敗し続けたということを暗示させる。
ユダヤ属州では、イエスが十字架にかけられた後も、三度の大きな抵抗運動が起きている。第一次ユダヤ戦争(66年~70年)、キトス戦争(115年~117年)及びバル・コクバの乱(132年~135年)である。ユダヤ人による最後の武装蜂起であるバル・コクバの乱の後に、ローマは属州名を「シリア・パレスチナ」に変更する。ローマはエルサレムの神殿を破壊し、わずかな少数を除いて、ユダヤ人たちはパレスチナを後に、各地へと移住していく。
もっとも、この大離散以前に、ユダヤ人の人口はカナンの外の方がすでに多い。敗戦に伴う奴隷化だけでなく、経済的理由から離れて移民するユダヤ人も相当数を数えている。また、カナンでも、ヘブライ語ではなく、ペルシア帝国領内で広く通じたアラム語がユダヤ人たちの間で使われている。現存するユダヤ教のトーラー並びにタルムードの一部はアラム語で記されているし、映画『パッション』で描かれたように、イエスもその言語で説教している。
最高顧問官がイエスの復活に読みとの意味は、ユダとが異なっている。「意見」は一致していても、それぞれの「目的」は違う。彼は熱心党のテロにあい、死を迎える間際、「おれ」を呼び、イエスの復活を命令する。「たとえ、わしが死に、あいつが死んでも、わしのあいつに対する影響力、支配力、つまりはわしとイエスのぬきさしならぬ結びつきを断ってはならぬのじゃ」。「わしはイエスを神の子にしてやる。あの人間の子を神の子にしてやることができる。それはできるのは、わしだけじゃ。あいつの弟子どもは、あいつを愛しておる。じゃが、愛しておるだけでは何もできはせんのじゃ。イエスを復活させろ。ユダと力をあわせて、あいつを生きかえさせろ」。顧問官は支配=被支配の力学・心理学の中でイエスの復活を捉え、そこに自らの復活を見ている。
武田泰淳は、『司馬遷─史記の世界』において、政治と世界の関係について『史記』を読み解きながら、次のように述べている。
世界の歴史は政治の歴史である。政治だけが世界を形作る。政治をになうものが世界をになう。「史記」の意味する政治とは「動かすものの」ことである。世界を動かすものの意味である。歴史の動力となるもの、世界の動力となるもの、それが政治的人間である。政治的人間こそは「史記」の主体をなす存在である。(略)人間が世界の中心となり、分裂する集団となり、独立する個人となるためには、政治的人間にならなければならない。政治的人間としてとりあつかわれた人間だけが、歴史の舞台に於て、一つの役目をもつことができる。そして役目をもたされた人物として、歴史劇に出場することを許される。かくして、この人物は、あの人物と関係をもち、この役は、あの役と連絡し、そして「史記」全体ができあがるのである。「史記」を書くためには、まず人間を政治的人間としてとりあげる手段を発見しなければならない。このことによって、世界を考える道がひらけ、全体を組織だてる要素を集める道がひらけるのである。
しかしながら、「動かすもの」とは何であろうか? 世界を動かすものとは何物であろうか? 「政治的人間」とはそも何者であろうか? その動力は何処に発するのであろうか?
「動かすもの」は人間である。世界を動かすものは人間以外にない。政治的人間もまた「人間」である。その動力は何処からでもない「人間」から発するのである。それ故、世界の歴史を書き、歴史全体を考えようとするものは、まず「人間」をきわめなければならない。
政治的人間はたんに権力関係の力学・心理学を熟知し、利用できるだけでなく、与えられた「役目」を演じきれる覚悟と能力を持つものである。政治において、アイデンティティは心理的なものではない。自分自身を抑え、社会的・時代的に与えられた「役目」を演じきれることである。
最高顧問官やユダは、明らかに、政治的人間である。しかし、一見したところでは、そうでないけれども、マリアの夫ヨセフも政治的人間の一人である。彼はイエスの最後の晩餐に姿を見せていない。「それは、大工ヨセフは無かった男であり続けることに、満足をおぼえ、そうなることを一生の目的にしたからではないのか」。ヨセフはイエスを「有った男」とするために、自らを「無かった男」とすることを受け入れる。納得しているかどうかは別として、自分の「役目」を演じきる覚悟を持ったとき、彼は政治的人間となる。
『わが子キリスト』は、イエスを「有った男」とするための「無かった男」の記録である。彼らは決して存在せず、これからも存在しない。『ミッション・インポッシブル』の任務を伝えると自動的に消滅するテープのように、「役目」を終えたら、ただ消え去るのみだ。たんに「有った男」と「無かった男」が二項対立して物語が展開しているのではない。
一度決まってしまった濁流のような流れを変えたり、押しとどめたりすることなど誰にもできない。自分の役割を演じきるだけである。敗者はいかにそれが不本意であったとしても、呆然としながらも、もうここまできたら、それを続けるしかない。ビル・クリントンに勝ち目がないことはわかっていても、ボブ・ドールは大統領選挙を放棄するわけにはいかない。役割を放り投げて、その場を逃げ出すことができない。また、エーリッヒ・ホーネッカーは、一九八九年、提案された自身の解任動議に対し、自らも賛成票を投じ、全会一致というドイツ民主共和国におけるあるべき姿で議決させ、国家評議会議長としての職務を全うしている。
マリアは主な登場人物の中で唯一の女性であり、不可解な存在として登場している。彼女は3歳のイエスを「神の子」と言っていたかと思うと、成人した後、「おれ」に向かって「あなたさまの子」と告げ、イエスの遺体を前にして、その復活を信じていないと伝えたりしている。マリアは自分の与えられた「役目」を演じきろうとしているとは見えない。その意味で、彼女は政治的人間ではない。政治的人間は「無かった人間」となる「役目」を承諾するものであるから、マリアは、それにより、「有った人間」として語り継がれていく。世界は政治的人間だけで構成されているわけではない
マリアはイエスの復活を信じていないが、政治的人間にとって、復活は信じるとか信じないとかの問題ではない。それは実現しなければならない。この奇蹟こそが政治的人間たちによるパイル・プロジェクトのクライマックスとなる。
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