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水村美苗の『日本語が亡びるとき』、あるいはコミュニケーションが亡びるとき(5)(2009)

9 必要になったら神様が教えてくれる
 水村美苗の教育に関する提言には、現代の教育学から見れば、疑問が残る。体系的・総合的な理論と言うよりも、日本文学の現状に対する義憤、それとの間でコミュニケーションが成り立っていない苛立ちから発せられているものとして受けとるべきだろう。もし日本語を亡びさせないようにするとしたら、必要なのは多様なコミュニケーションを有機的に結びつける協同学習である。古典もそのようにして扱うべきである。

 私が、日本文学の現状に、幼稚な光景を見いだしたりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。(略)この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。
(水村美苗『日本語が亡びるとき』)

 水村美苗は、二葉亭四迷の 『浮雲』から谷崎潤一郎の『細雪』までを「日本近代文学」と括り、これと「現代小説」を対照させる。彼女の非難する者は「大衆消費社会」における「文化商品」であり、その最たる例が『ハリー・ポッター』シリーズである。水村美苗は、グローバリズムに無批判的で、安直な本しか手にとらない人の日本語は「すでに自国の文学を持たない、現地語に墜ちた響きを感じる」と嘆く。しかし、真に問題なのは両者が断絶している事態である。文学全体のコミュニケーションが固定的・限定的になっている。

 漱石の孫の夏目房之介は、『マンガはなぜ面白いのか』の中で、多様なコミュニケーションの必要性を次のように言っている。「マンガがとても豊かな娯楽性を発揮して、大衆文化として根づいているとすれば、先鋭的な表現と定型的な表現とが互いに完全に分離しないで、交流しながら発展しているからだろうと考えられます。おうおうにして批評家やマニアがバカにしてしまうような作品、どこを読んでも同じような類型的な作品がたくさんあることによって、初めてマンガ文化全体が豊かなダイナミズムを持ちうるのです。『いいマンガ』、『優れたマンガ』、『先鋭的なマンガ』のみを評価して、『くだらないモノ』は排除するという発想でマンガをとらえると、自分で自分の首をしめるようなことになりかねません」。これはマンガに限らず、文化全般に言える。文学も「『くだらないモノ』は排除するという発想で」とらえると、「自分で自分の首をしめるようなことになりかねません」。

 文化は協同学習のような相互作用が不可欠である。ところが、今の日本文学は「先鋭的な表現と定型的な表現とが互いに完全に分離」し、コミュニケーションが固定化・限定化されている。コミュニケーションの多様化を促進させ、それらが有機的に「交流しながら発展」していくことを目指す必要に迫られている。エリートは大衆から自らを差異化することでアイデンティティを確認する。自分こそが正統な伝統の継承者であり、現状は堕落していると嘆く。現状に対する処方箋は自身のエリート意識への反省がなく、その対象の持続可能性からほど遠い。多様性を目指さず、それを狭め、コミュニケーションが亡びるときを促進するからだ。水村美苗の『日本語が亡びるとき』が示唆するのは、エリート主義的内容はさておき、それが登場せざるを得なかった文学の現状を「正視」しなければならないということである。

 最近テレビで、インドの番組を見ていて感心したことがある。祭の山車をつくる大工の棟梁が、自分の技術を次代に伝えようという意識をまったくもっていないのだ。さりとて秘芸として隠しているのではなく、むしろ極めて公開的。
 そのおじいさんのいわく、「必要になったら、神様が教えてくれはりますがな」。
 文化というと、このごろみんな伝承を気にしている。学問だってそうだ。ぼくはインド人ではないので、神様を信仰していないが、別に伝承なんかしないでも、機が熟したなら、似たような文化はいつでも生まれそうに思う。消えてしまうのなら、それは神様のおぼしめしにかなわなかった、ということにしておこう。時代がほんの少しだけずれたり、歴史的な文化の個別性によって色あいが違ったりするかもしれぬが、そこが文化のおもしろいところ。正統性の一筋なんて、信じることもあるまい。時間も空間もクロスオーバー。
(森毅『「必要になったら神様が教えてくれる」』)
〈了〉
参照文献
相原茂、『はじめての中国語』、講談社現代新書、1990年
大西克也=宮本徹、『アジアと漢字文化』、放送大学教育振興会、2009年
加藤徹他、『日中二千年漢字のつきあい/漢方なるほど物語』、日本放送出版協会、2007年
柄谷行人、『ダイアローグⅣ』、第三文明社、1991年
金田一秀穂、『日本語のカタチとココロ』、日本放送出版協会、2007年
同、『金田一先生の厳選大人の漢字講座』、学校図書、2007年
同、『「汚い」日本語講座』、新潮新書、2008年
佐藤秀夫、『新訂教育の歴史』、放送大学教育振興会、2000年
佐藤学、『改訂版教育の方法』、放送大学教会振興会、2004年
杉浦克己、『改訂版書誌学』、放送大学教育振興会、2003年
辻本政史、『教育の社会文化史』、放送大学教育振興会、2004年
夏目房之介、『マンガはなぜ面白いのか』、NHKライブラリー、1997年
福田収一、『デザイン工学』、放送大学教育振興会、2008年
御厨貴、『「保守」の終わり』、毎日新聞社、2004年
水村美苗、『日本語が亡びるとき─英語の世紀の中で』、筑摩書房、2008年
森毅、『みんなが忘れてしまった大事な話』、ワニ文庫、1996年
同、『「頭ひとつ」でうまくいく』、知的生き方文庫、1998年
谷沢永一編、『石橋湛山著作集4 改造は心から』、東洋経済新報社、1995年
ダニエル・ゴールマン、『EQ―こころの知能指数』、土屋京子訳、講談社文庫、1998年
Munir Baalbaki, Al-Mawrid: A Modern English-Arabic Dictionary 2006 , Kazi Pubns Inc, 2006

DVD『エンカルタ総合大百科2008』、マイクロソフト社、2008年
国立特別支援教育総合研究所
http://www.nise.go.jp/blog/index.html
全日本ろうあ連盟
http://www.jfd.or.jp/
梅田望夫、『My Life Between Silicon Valley and Japan』
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1


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