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「正義」への誤解(2024)

「正義」への誤解
Saven Satow
Aug. 30, 2024

「不正義がどこかで存在するなら、それは至るところでの正義に対する脅威である(Injustice anywhere is a threat to justice everywhere)」。
マーティン・ルーサー・キング

 「正義」は”Justice”の訳語である。それは、ジョン・ロールズの『正義論(A Theory of Justice)』(1971)が示す通り、社会的公正を意味する。“Justice”は”justから派生した単語で、”Fair”の類義語である。そのため、司法に関連して用いられる。法務省を英語で”Ministry of Justice”、司法省を”Department of Justice”と言う。また、裁判所を象徴する剣と天秤を持った女神ユースティティア(Justitia)は「正義の女神(Lady Justice)」」と呼ばれている。このように「正義」は社会における公正を指す。

 ところが、「正義」の意味を誤解している人が日本では少なくないようだ。その好例が作家の星野智幸である。

 彼は、『朝日新聞DIGITAL』2024年8月27日 5時00分配信「言葉を消費されて 『正義』に依存し個を捨てるリベラル」において、「正義」と「公正」を区別して次のように述べている。

 リベラルな考え方に理があるかどう、現状に即して公正かどうかという判断と、リベラルな思想は「正義」であって絶対的に正しく否定されることはありえない、という感覚を持つことは、まったく別の問題である。自分を含めリベラル層の多くが、じつは後者を求めていると私は気づいた。

 このように彼は「正義」と「公正」を別の概念と理解している。文脈から推測すると、おそらく彼は「正義」を”Rightness”の意味で使っている。

 確かに、前近代における「正義」の意味は必ずしも公正ではない。これは儒教に由来する概念である。用例としては、『愚管抄』(1220)六・土御門に「わが御心には是を正義とのみ思召けるなるべし」がある。儒教の教えには「五常」があり、それは「仁」・「義」・「礼」・「智」・「信によって構成されている。「仁」は他者への愛情、「「義」は人としての筋道、「礼」は社会的な作法、「智」は善意の判断力、「信」は言葉の誠意を意味する。儒教における「義」は道理に従って人が行うべき道筋で、それから派生する「正義」は必ずしも公正を指していない。

 しかし、この用法は近代の政治をめぐる議論において認められない。それは”Justic2e”の訳語だけでなく、その道理が儒教道徳に基づいているからだ。

 前近代は共同体が先にあり、そこに個々人が属する共同体主義の時代である。彼らは共同体の認める規範を共有し、それを守る義務の対価として権利が与えられる。政治は規範の説く徳を実践することだ。政治は宗教と一体化している。

 江戸幕府の公認イデオロギーは朱子学で、その政治はそれを実践することを目的とする。武士は、儒教的な意味における徳を有しているから、統治を担当している。裁判も有徳者である奉行が儒教道徳に基づく頓智頓才によって裁く場である。「正義」も儒教の道理に適った正しい行為を指す。

 しかし、こうした前近代の発想は、欧州で宗教改革をきっかけに始まった宗教戦争を通じて再考を促される。各勢力が自らの道徳の正しさに則り、凄惨な殺し合いを繰り広げる。それを教訓に、17世紀英国のトマス・ホッブズは政治の目的を徳の実践から平和の実現へ変更する。平和でなければ、よい生き方もできない。その際、彼は政教分離を提唱する。政治は公、信仰は私の領域に属し、お互いに干渉してはならない。これは価値観の選択を個人に委ねたことを意味する。こうして個人主義の近代が始まる。

 ただし、近代にも絶対的な価値がある。それは「人権」である。自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成している。その個々人は相互に物や道具のような客体ではなく、主体として扱われなければならない。これが人権である。個人が共同体より先にあるので、権利は義務の対価ではなく、先天的にある。カルトが許されないのは人権侵害するからである。こうした人権が絶対的であるのは、世界道徳宣言はないが、世界人権宣言があることからも明らかだろう。

 「正義」が儒教道徳の道理に関連しているとなると、近代の政教分離原則に反する。価値観の選択が個人に委ねられているのに、儒教だけが誰にとっても正しいとは認められない。「正義」が”Justice”の訳語として社会的公正を意味することは近代的である。実際、日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という記述があり、子の英訳は”trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world”である。”Justice”は「公正」に対応している。その訳語である「正義」が「公正」を含意することは明らかだろう。

1970年代以降の政治学の最も重要な課題の一つが「正義」である。ロールズはリベラルの立場から「正義」、すなわち社会的公正がいかなるものであるかを分析し、肯定的・否定的を含めそれをめぐってさまざまな議論が積み重ねられている。こうした状況を踏まえるなら、「正義」を誤解して新聞で自説を述べることは反知性主義的ですらある。星野の意見は、賛同するかどうか以前に、そんなに長く語る必要もなく、「カルト」の言及があるように、宗教戦争をめぐる歴史を顧みて、リベラルは反近代的で、自己矛盾しているのではないかですむ。

 と同時に、こういった記事を掲載したのだから、少なくとも、朝日新聞の担当者は「正義」を理解していない。これは近代にあるまじき状況である。近代社会がその理念に沿ってよりよく進化するには、教養市民層の専門職の働きが欠かせない。そこに弁護士や大学教授などと並んでジャーナリストも含まれる。新聞記者が「正義」の意味を誤解しているのではその職にふさわしいとは言い難い。ジャーナリストには近代に関する基礎的な体系的理論を理解しておくことが求められる。読者はともかく、作家や記者にはそうした知識を持っているべきである。新聞にはもっと知的な記事が必要だ。
〈了〉
参照文献
星野智幸、「言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル」、『朝日新聞DIGITAL』、2024年8月27日 5時00分配信
https://digital.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html?iref=pc_ss_date_article


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