キリスト教と政治(2016)
キリスト教と政治
Saven Satow
Sep, 03. 2016
「神は風を備える、だが人が帆をあげなければならない」。
聖アウグスティヌス
近代化を取り入れて以来、日本人はキリスト教の西洋への影響にしばしば言及します。けれども、それらは要点を必ずしも捉えていません。ステロタイプの文明論、経験や観察に基づく直観的意見、表現作品の解釈の拡張などで思いつきや思いこみのはん濫が目につきます。それを根拠に西洋と違う日本という歪んだ自画像も多々見受けられます。
その最たる例の一つが国家神道の創設でしょう。近代国家建設に際して、藩閥政府は西洋の政治社会の根幹にキリスト教があるとして神道に同様の役割を与えようとします。
国家神道は藩閥政府が近代を本質的に理解していないことを明らかにしています。近代は宗教戦争の戦禍を教訓に、政教分離が根本的原則です。国家神道はそれに反しています。むしろ、江戸幕府の方が政教分離の体制だったと言えます。
しかし、前近代を顧みたとしても、神道が政治社会におけるキリスト教の位置づけを得ることはできません。西洋の政治にキリスト教がもたらした新たな認識を浸透が本質的に持っていないからです。
紀元1世紀に誕生氏らキリスト教へ帝政時にローマに普及しています。西洋にはキリスト教以前の社会があります。キリスト教の浸透によってローマにどのような変化がもたらされたかを検討すれば、その影響のポイントが明らかになります。
実は、ローマ時代にまさにそういった考察がキリスト信徒地震によって行われています。それを公表したのが聖アウグスティヌスです。彼はキリスト教神学における最大の巨人の一人です。思いつきと思いこみでキリスト教の西洋への影響を語っているのはアウグスティヌスを読んでいないからでしょう。しかし、その姿勢はあまりに不遜です。
アウグスティヌスは、410年のゴート族によるローマ歓楽に際して、キリスト教への批判に対する反論を元老院に示します。それが『神の国』です。この著作は西洋政治思想史における重要分権の一つです。キリスト教の政治理論への影響が端的に示されています。
アウグスティヌスは、キリスト教思想に基づき、古代地中海世界で自明視されていた前提を覆す主張を展開します。それはセカンド・ベストの世界を実現することが人間の政治だと言うことです。グレコ=ローマンの思想家はベストを目指していますから、これは大きな転換です。
アウグスティヌスによれば、人間にとってベストは神の国です。けれども、それは神の御業がもたらすもので、人間委は実現不可能です。人間はその理想郷を参照しつつ、この世にそれに次ぐ望ましい世界を築き上げるべきです。超越的な理想を設定して現実を相対化する見方がここに認められます。
キリスト教以前の思想家は政治を理想世界の実現と捉えています。理想がこの世の外にあると考えません。アリストテレスは、人間を本来的にポリス的動物と定義しています。これは人間にとって政治社会はポリスが自明の堰堤であって、それを超えつぇかいなどないことを示しています。超越的な理想を想定して現実を相対化する認識がありません。
アウグスティヌスとアリストテレスの理想の位置づけの違いは両者の宗教観に由来します。前者の信仰は世界宗教のキリスト教です。他方、後者は共同体に内属した伝統宗教です。
伝統宗教は共同体に内属しています。それを共有していることが共同体の構成員ですから、暗黙の前提です。体系的な教義を必要としません。信仰は道徳的規範や生活習慣、祭祀儀礼などを通じて確認されます。叙事詩や神話を持っていても、概して、聖典がありません。
共同体に内属していますから、伝統宗教の世界観にはその外がありません。此岸と彼岸が連続しています。これはお盆を思い浮かべれば、理解できるでしょう。先祖がこの世に戻ってきた後、またあの世に帰って行きます。此岸と彼岸が連続していますので、死者の行き来が可能です。
一方、世界宗教は複数の共同体に亘って受容されます。共同体の暗黙の前提ではありませんから、信仰の共通認識として聖典が必要になります。共同体に内属していませんので、此岸と彼岸の間に裁きの場があり、連続していません。キリスト教では、信者に最後の審判が待っています。
死者は生前の行いによってその後の行き先が決定されます。来世が天国と地獄、煉獄などに階層化されています。人間は現世と同じような秩序によって存在することができません。あの世はこの世と直線的につながっていないのです。
キリスト教は超共同体的な世界宗教です。共同体の外に理想を置き、それが信者の共通理解となります。政治思想も超越的な理想によって現実の政体を相対化します。過去や現在の政体も絶対的ではありません。神の国の理想に照らし合わせて、改変されていくものです。けれども、人間はベストに到達することができません。その政体も将来に向けて根本的に変わる可能性があります。政治は動的で、未完のプロジェクトです。現実の政体を相対化する批判的姿勢は現代にも通じます。
他方、神道は伝統宗教の一種です。共同体に内属していますから、超越的な理想を持っていません。政治がセカンド・ベストの世界実現という発想もありません。それどころか、国家と結びつくと、その政体を絶対視する危険性があります。神道は政治社会においてキリスト教の役割を担えないのです。
この世にベストの理想社会を実現するという企てはグロテスクな帰結をもたらしています。それは過去だけでなく、現在も同様です。もちろん、キリスト教の原点回帰を掲げる体制も例外ではありません。
セカンド・ベストの他にも、西洋政治へのキリスト教の影響があります。それは参加から代表への意思決定の返還です。この変更も、必ずしも明示的ではありませんが、アウグスティヌスの著作『告白』に見出せます。この4世紀末の自伝は非常によく読まれ、キリスト教のみならず、その後の西洋思想史に与えた影響は計り知れません。
キリスト教が広く普及してくると、さまざまな信者が出現します。信仰心にしても、教えの理解にしても、行いにしても、ばらついてしまいます。そこで、急進的な信者の中から少数精鋭の出家信徒がキリスト教の前衛となるべきだという主張が発せられます。
そうしたエリート主義に対して、アウグスティヌスは多種多様の信徒を包括しているのがキリスト教だと反論します。神の前で信者が平等であるから、選別は慎むべきであると述べています。
信者が神の前で平等だとすれば、共同体内外に存在する差異が相対化されます。貴族や市民、女性、奴隷、ギリシア人、ローマ人、ガリア人といった身分や出自、出身など問われません。それは誰でも信徒になれることを意味します。異教徒であっても、改宗すれば、もうキリスト教徒です。
キリスト教は共同体に拘束されていませんから、信者の人口は飛躍的に増加します。しかも、彼らは異なった共同体の構成員です。そうなると、キリスト教における意思決定がグレコ=ローマン流の参加では困難です。
グレコ=ローマンにおいて、参加資格者が一同に集い、意思決定過程に加わります。視覚は共同体のルールによってきめられています。有資格者の間に優劣はありません。意思決定の過程に参加するのですから、決まったことはみんなで守らなければなりません。
一方、キリスト教徒の資格はありません。誰でも信徒になれます。そのキリスト教にも協議の解釈や教会の運営などの意思決定が必要です。しかし、すべてのサ信徒が一同に集うことは不可能です。
そこで、参加に代わって代表という発想が生じます。意思決定に際して、信徒の代表がそれに携わるというわけです。ただし、加われない信徒もそれに従うことが求められます。過程に参加できないけれども、結果を順守することにより、支配と被支配の関係が形成されます。
平等であるからこそ、代表に基づく権力関係が出現します。その際、根拠である代表が問われることになります。誰が信徒の真の代表であるのかに関する共通理解が必要ただし、。
中世のキリスト教会には二つの意思決定機関があります。一つは教会幹部によって選出される教皇です。もう一つは有力聖職者が一同に集う公会議です。いずれも信者の代表です。けれども、その関係が明確ではありません。
この問題は現代の政治にも通じます。今日、世界的に広く間接民主制が採用されています。その際、政治家が誰の代表なのかは決して一つの答えがあるわけではありません。議員は国民の代表なのか、それとも地域の代表なのか、あるいは二元代表制において大統領(首長)と議会の民意との関係はどうなのかは同時代的課題です。
このようにキリスト教の西洋政治への影響はアウグスティヌスの著作に端的に示されています。セカンド・ベストと代表性は現代に通じる認識です。キリスト教と政治は同時代的課題に関しても示唆を与えます。
西洋にはスコラ哲学という知的営みの蓄積があります。禅問答と並んで神学論争と言えば、非生産的な些末な議論と見なされることもあります。けれども、キリスト教をめぐって過激なまでに熟議したことは間違いありません。そこまでするのかと呆れるほどです。キリスト教の影響を口にするのであれば、その基本的知識は持っておくべきでしょう。それは政治領域だけではありません。
医学は複数の症状があっても、それをできるだけ一つの原因に還元する傾向があります。それをキリスト教の一神教に原因を見出す日本の医師がしばしばいます。神が一つだから、原因も一元的に特定するというわけです。
確かに、この見方にキリスト教の影響があります。ただ、それは14世紀の哲学者ウィリアム・オッカムの論法に由来しています。彼は「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきではない」という原則を立てて自説を主張し、論争を繰り返しています。それは「オッカムの剃刀」と呼ばれます。
原因を一つに制限することが妥当であるかはさておき、この見方がスコラ哲学に由来するのであれば、その文脈を探ることができます。そこをたどって新たな発想が生まれる可能性もあるでしょう。
思いつきと思いこみでキリスト教の影響を認知して西洋を描くことは、歪んだ自画像を露わにすることになります。自らの理解を相対化するために、キリスト教体系の基礎を学ぶことは意義あることなのです。「世界とは一冊の本であり、旅に出ない者は同じ頁ばかり読んでいるのだ」(聖アウグスティヌス)。
〈了〉
参照文献
アウグスティヌス、『告白』上下、服部英次郎訳、英、岩波文庫、1976年
同、『神の国』全5巻、服部英次郎他訳、岩波文庫、1999年