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武田泰淳の『わが子キリスト』、あるいは政治的人間の記録(1)(2007)

武田泰淳の『わが子キリスト』、あるいは政治的人間の記録
Save Satow
Aug. 31, 2007

「いまだかつてユーモアのセンスのあるものが宗教を興したことはない(No man with a sense of humour ever founded a religion)」。
ロバート・グリーン・インガーソル

1 地中海世界とユダヤ教
 ローマ帝国にとって、ユダヤはやっかいな連中である。紀元前63年、グナエウス・ポンペイウスの東方遠征によりユダヤはローマの支配下に入る。この民は内部でお互いに反目しあいつつ、他の諸勢力に何度も征服されてきたが、その都度、独自の宗教を固持し、同化を拒んでいる。

 自分たちは唯一の神ヤハウェと契約で結ばれていると信じ、一切の偶像崇拝を厳禁とするその宗教は周囲からはしばしば奇妙に思われていたが、彼らは意に介さない。紀元前167年に勃発したセレウコス朝シリアとのマカバイ戦争以来、ハスモン家の者が大祭司としてユダヤの独立を維持し、たとえ地中海世界の新たな覇者ローマに対してもそれを求めている。法律や土木工事など実用性を尊ぶローマもその地位を認めたけれども、彼らは、度々、武装蜂起を含め、激しい抵抗運動を起こし、ローマにとって悩みの種となってしまう。

 ローマの市民権を与えられていたにもかかわらず、時の皇帝の守護神を祀るというのが当時の宗教的慣例だったがそれに従う気などさらさらなく、すべての道はローマに通じるとは思っていないように見受けられる。ローマ人にとって抽象的な唯一の神を信じるなど無神論も同様だ。この身の程知らずの無神論者をおとなしくさせなければならないと駐留軍はアイデア探している。

 紀元前586年から前538年にかけてのバビロン捕囚の経験により、ユダヤ人はヤハウェ信仰をユダヤ教へと昇華させる。バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世は寛大なことで知られ、ユダヤの民に帰郷を許可する。この解放はユダヤ人に自らの信仰の正しさを確信させ、『イザヤ書』はキュロス大王を、「油を注がれた人」、すなわちメシアと呼び、次のように最大の賛辞で褒め称えている。

 キュロスに向かって、わたしの救者、わたしの望みを成就させる者、と言う。
 エルサレムには、再建される、と言い、神殿には墓が置かれる、と言う。
(44章28節)

 主が油を注がれた人キュロスについて、こう言われる。
 わたしは彼の右の手を硬く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。
 扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない。
(45章1節)

 異教徒の王であるキュロスをヤハウェがユダヤの民をバビロンから解放するために使わせたというのは、いささかおかしな話ではある。けれども、この神はユダヤ人を救う際だけでなく、罰するときにも異教徒を利用する。ジークムント・フロイトも、こうしたユダヤ教の特徴を踏まえて、『モーセと一神教』において、モーゼがエジプト人だったというユニークな仮説を示している。

 ユダヤ教に見られる最後の審判や天使、悪魔、光と闇などはそのペルシアの宗教ゾロアスター教からの影響である。ユダヤ教はユダヤを母とし、ペルシアを父として生まれたとも言える。『エレミヤ書』や『ダニエル書』には、ゾロアスター教のマギ僧に関する詳細な記述があるけれども、『マタイによる福音書』が伝えるイエスの生誕をヘロデに告げる東方の三博士もマギ僧なのだが、その痕跡は残されていない。

 帰郷を決心したユダヤ人はエルサレムに戻り、神殿を再建する。しかし、紀元前334年から10年間に亘るアレクサンドロス大王の東方遠征に伴い、その支配領域に組みこまれる。紀元前323年、突然、この若き王が病死すると、武将たちはその後継者を自称し、対立と抗争を劇化させ、その広大な国土はアンティゴノズ朝マケドニア・セレウコス朝シリア・プトレマイオス朝エジプトに三分割される。カナンは、紀元前312年に建国されたセレウコス朝シリアがその支配権を獲得する。

 カナンを占領したアンティオス3世は無益な衝突を好ましくないとして、ユダヤに対し寛容な姿勢をとる。ところが、その後継者セレウコス4世並びにアンティオコス4世エピファネスは方針を転換する。特に、後者はヘレニズム的価値観を最高と考え、野蛮の民を啓蒙しなければならないという信念に凝り固まっている。彼はエルサレム神殿にゼウス像を建立させ、聖書を焼却、ユダヤ人たちに割礼や安息日、食物規定の禁止を命令し、逆らう者は容赦なく殺害していく。

 それに対して、紀元前167年、ユダヤ教徒は武装蜂起し、シリア軍に徹底したゲリラ戦を挑む。これに参加した戦士は敬虔主義者、すなわちハスィディームと呼ばれている。紀元前142年、消耗したシリア軍は撤退し、ハスモン家が王朝を開き、ユダヤ人は独立を勝ちとる。

 けれども、戦後、往々にして民族解放運動や革命の闘士が陥る独善性に、ハスモン家も囚われてしまう。ハスモン家は、権力を奪取した革命勢力が内部粛清するように、かつての同志ハスィディームを追放する。神殿を牛耳るサドカイ派を味方につけるために、彼らの教条主義を政策にとり入れるが、その頑迷な保守主義に辟易とした人心は次第にこの英雄一族から離れていく。

 排除された勢力はパリサイ派として結集し、サドカイ派を厳しく糾弾する。時には、シリアの残党と手を組み、ハスモン家と交戦している。また、対外的には、彼らは革命思想の輸出とばかりに周辺国を侵略し、住民にユダヤ教への改宗を強制している。信仰の押しつけを拒否して抵抗運動を始めたにもかかわらず、ハスモン朝は被支配者に同化政策を強力に施行するのは、明白な矛盾であり、他民族からの反感をかい、反ユダヤの種を自ら播いたようなものである。これにより、ユダヤ教徒の数は激増したものの、新たな内部対立をはらむことになってしまう。

 新たな改宗者の中に、イドマヤ人ヘロデがいる。彼はハスモン家の王女マリアンネと結婚したが、ヘブライズムを毛嫌いし、ヘレニズムに好意的な人物である。抜け目のない政治的な彼はローマの政局を巧みに利用しながら、ライバルを次々と蹴落として、紀元前37年、ローマ公認の下、ユダヤの王の権力を掌握する。これに伴い、ハスモン家及びそれに近い者たちをすべて粛清していく。父を殺さなければ、子は王にはなれない。

2 イエスの父
 1967年、武田泰淳は、この何かと反抗的なユダヤ人に手を焼いたローマは支配をスムーズに進めるために、新たな傀儡の指導者を必要とし、高度な政治的判断により選ばれたのがイエスだという大胆な解釈を一編の小説を通じて提示する。しかし、彼はさらに驚愕の仮説をそこに書き記している。

 とにかく、あのユダヤ女マリアにお前を生ませた御当人は、ほかならぬこのローマ男、ユダヤ進駐軍兵士のおれさまなんだからな。

 マリアは処女懐妊したのではなく、イエスの肉の父は、実は、ローマの百人隊長だという驚くべき秘密を『わが子キリスト』は告げる。

 イエスの父に関する推測の提起は、言うまでもなく、この小説に限ったことではない。イスラムでは、マリアの処女懐妊に関して、彼女は不妊症で苦しんでいたのであり、にもかかわらず妊娠したということが奇蹟なのだと解されている。

 なお、禁断の知恵の実を食べたため、アダムとエヴァがエデンを追放されるが、そんなことまでした人間たちをお許しになったもだとして神の慈悲深さを表わすエピソードと理解されている。この解釈の変更は、ユダヤ教では「神を怖れよ」が、イスラムにおいては「アッラーを讃えよ」となっている点を端的に表わしている。

 泰淳の仮説は必ずしもスキャンダラスではないし、また、反ユダヤ主義を弁護しているわけでもない。キリスト教の成立と成長にはユダヤとローマの両方が不可欠である。この設定はキリスト教がユダヤを母、ローマを父として生まれたという比喩としても読める。

 泰淳の新たな聖書解釈はヘロデによる「子供狩」にも及ぶ。主人公の「おれ」、すなわちローマ軍の兵士の口を通して、それについて次のように語られている。

 おれたちの子供狩の目的は、蕃族の子供たちを絶滅することではなくて、永久に蕃族のみじめな一員として一生をおわるにちがいない不幸な子供たちの中から、わが文明帝国ローマ(それこそ世界を動かす中心であらねばならぬ)へ連れて行って、蕃族の垢やけがれをすっかり洗い流し、文明人の仲間入りできる優秀な子供をえらび出すことにあるのだ。殺されるより選ばれる方を好むのが、親の人情であるからには、この平和的で寛大きわまる「子供狩」の方が、彼らのでっちあげた伝説や予言より、はるかに魅力的なものとして、しみじみと感得されることは,大いにありうることなのだ。

 ヘロデが「子供狩」を命令したのではなく、ローマ占領軍が独自に行ったのであり、しかも、それは「水晶の夜」ではない。ローマ的価値観に基づいて、ユダヤ人を統率する指導者となる見込みのある子供を選び出し、本国に送って英才教育をするのが目的である。ヘロデは問答無用の独裁者ではなく、ローマを後ろ盾に権力を行使していたのであって、進駐軍の意向を無視して独走することはできない。むしろ、この「子供狩」はローマがポスト・ヘロデを見越した上でのミッションである。

 それはオーストラリア政府が実施した「盗まれた子供(Stolen children)」政策の前例とも言える、オーストラリアでは、1910年頃から70年にかけて、アボリジニを白人社会に同化させるために、各地でキリスト教の伝道所が建設され、アボリジニの子供たちを強制的に寄宿舎に入れて、同化教育を行っている。この対象者は「盗まれた子供たち」と呼ばれている。

 実際、ヘロデが亡くなったのが紀元前4年、イエスの誕生は紀元4年とされているのだから、その命令を死者が下せるはずがそもそもない。ヘロデは、確かに政治的な父殺しのために血族や司法関係者の多くを暗殺したが、聖書に描かれたような嬰児狩りを行っていない。彼はローマ政界の変化を利用し、ハスモン家に代わり、ユダヤの王を称して、46年間もこのカナンを統治している。彼はユダヤ人による史料では激しく糾弾されているが、開発独裁のスハルトやフェルディナンド・マルコスのように捉えるべきだろう。

 宗主国ローマとユダヤの民衆要求のバランスを巧みにとろうとし続け、繁栄をもたらしている。独裁者は権力闘争をしぶとく生き残ってきた経験があるため、概して、外交に長けているものである。グレコ・ローマン風の建物を建設させる一方で、エルサレムの神殿をソロモン王以来の大改築させている。ヘロデは、ローマの協力者(Collaborator)として、いわゆる協力者のジレンマに陥らないように苦心していたが、先の権威主義的指導者たちがそうであったように、民衆からの支持は最後まで得ることはできなかったものの、政治手腕は決して低くはない。

 けれども、ヘロデ式手法がいつまでも続けられるものではない。アメリカが横暴で民衆から不人気だったゴ・ディン・ディエムを見限った後、南ベトナムでは、クーデターが13回、内閣交代が9回と頻発している。ローマとしても、ヘロデの死後、こうした政治的混乱を避けなければならない。

 「子供狩」はローマの占領政策の方針転換を意味している。それは、軍事力を中心とした押さえ込みから、教育を通じたイデオロギーの内的浸透による自発的な従属への認識変更である。ユダヤ属州の支配の長期化を睨んだ場合、ローマにとっては、ハード・パワーよりソフト・パワー重視の方が得策だろう。

 この「子供狩」の過程で、「おれ」は3歳ぐらいの男の子を抱いたマリアと再会している。マリアも夫のヨセフもその子を「神の子」と呼ぶが、「おれ」は自分の子であると確信する。事情を知らない部下がその子を連れて行こうとするのを「おれ」は、「決してつまらんことではないと感じはじめ」、押しとどめ、その場を立ち去っている。

 それから20年以上も経った後、「おれ」は三度目のユダヤ駐在を命じられる。しかし、その属州は一度目のときの「三倍」も状況が悪化している。と同時に、あの子が、今や、「神の子としての、ほんものの予言者としての、まちがいのない精神的指導者らしき男」という評判が高まっているのを知る。


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