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幼年期の想起─シャルル・ボードレールの『パリの憂愁』(2)(2006)

3 ダンディとスノッブ
 こうした時代風潮に対し、ウジェーヌ・ドラクロワのような画家は「ダンディ(dandy)」を標榜する。『現代生活の画家(Le Peintre de la vie moderne)』(一八六三)によると、ダンディは精神主義や禁欲主義と境界を接した「自己崇拝の一種」であり、「独創性を身につけたいという熱烈な熱狂」であって、「民主政がまだ全能ではなく、貴族政がまだ部分的にしか動揺し堕落してはいないような、過渡期にあらわれ」、「デカダンス頽廃期における英雄主義の最後の輝き」である。

 そのダンディが嫌悪するのはブルジョア的な「スノッブ(snob)」である。一九世紀の半ば、イギリスの小説家ウィリアム・メイクピース・サッカレーの作品を通じてその言葉が普及したように、スノビズムは神の死と共に出現している。スノッブは、鈴木道彦の『プルーストを読む』によると、「一つの階層、サロン、グループに受け入れられ、そこに溶けこむことを求めながら、その環境から閉め出されている者たちに対するけちな優越感にひたる人々」である。世間体ばかりを気にするブルジョアはこのスノッブの典型である。

 けれども、ドラクロアを賞賛しつつも、阿部良雄の『群衆の中の芸術家』によると、彼はダンディを自称することはない。貴族政が完全に後退した社会において、スノビズムがあまりに凡庸であったとしても、「後光の紛失」した時代である近代に、ダンディズムは陳腐なアナクロニズムにすぎない。そういったダンディズムを目指すこと自体が凡庸なスノビズムである。モデルニテの浸透した民主政は貴族政のアンチテーゼではない。ダンディ対スノッブという素朴な図式はいささか古臭い。

4 群衆
 確かに、詩人は、ダンディと同じように、時代に対して不機嫌さを隠そうとしない。

 新年のお祭り騒ぎだった。数知れぬ馬車の駆けぬける泥と雪の混沌のなかに、玩具やボンボンがきらめき、貪欲と絶望が蠢いて、大都市の天下御免の錯乱ぶりは、この上もなくしっかりした孤独者の脳髄さえ狂わせぬばかり。
 この雑沓と喧騒のまっただなかを、一頭の驢馬が、鞭で武装した無作法者に責め立てられて、勢いよく駆けていた。
 驢馬が、とある歩道の角を曲がろうとした時、手袋をはめ、ぴかぴかにめかし込んで、痛いほどネクタイを締め上げ、おろし立ての服に身を封じこめた、立派な紳士が、つつましい動物の前に仰々しく身をかがめると、帽子をぬいで、「どうかあなたもよい仕合せなお年を!」と驢馬に言いざま、友だちらしい連中の方へ自惚れ顔で振り向いて、自分の満足に賛成の上塗りをしてくれと言いたげだった。
 驢馬はこのしゃれた剽軽者などに目にも入らず、己の義務の導く方へと、一生懸命に走り続けた。
 私はといえば、突然この堂々たる馬鹿ものに対して量り知れぬ憤怒をおぼえたが、この男こそ、フランスの才智の一切をその身に集めた者と、私には思われたのだ。
(「剽軽者」)

 ダンディを気どりながらも、スノッブ以外の何ものでもないこの「剽軽者」に対し、その愚かさのため、詩人は怒りを覚える。けれども、彼はふとこの愚か者こそ「フランスの才智の一切をその身に集めた者」ではないかと思い立つ。この馬鹿は犬儒学派のディオゲネスを思い起こさせる。こうしたシニシズムは一つの諷刺であり、自分自身の「癇癪」とその愚かさは表裏一体である。

 なんという素晴らしい日だろう! 広々とした庭園は、〈愛の神〉の支配下の青春さながら、太陽の燃える眼の下にうっとりとしている。
 物という物にあまねく行きわたった恍惚は、自らを表現するそよとの音をも立てはしない。水さえも眠り込んだかのようだ。人間たちの祝祭とはまるで違って、ここにあるのは沈黙の饗宴だ。
 明るさを増してやまぬ光が、すべての物を弥増しに煌かせる、とでも言おうか。刺戟された花々はその色彩の精力によって空の紺碧と競う望みに燃え立ち、また、熱気はもろもろの香りを目に見えるものにして煙さながら太陽の方へと立ちのぼらせている、とでも言おうか。
 ところが、物みながこうして楽しみにふけっているその中に、悲しんでいる者が一人私の目にとまった。
 巨大なウェヌス像の足もとに、あれら人工の痴呆の一人、王たちが〈悔恨〉や〈倦怠〉に憑きまとわるとき笑わせる役を進んで引き受けた、あれらの道化の一人が、きらびやかで可笑しな衣装を着こんで、角や鈴の付いた帽子をかぶり、台座に身を寄せすっかり縮こまって、涙でいっぱいの眼を不死なる〈女神〉の方へ挙げているのだ。
 そしてその眼は語るのだ――「私こそは人間の中で最下等の者、最も孤独な者、愛情にも友情にもめぐまれず、その点で最も不完全な動物にさえはるかに劣る者でございます。とは言え、この私とても、不死なる〈美〉を理解し、また感じるように生まれついているのです! おお! 〈女神〉よ! 私の悲しみと私の錯乱をお憐れみ下さいませ!」と。
 だが非常冷酷なウェヌスは大理石の眼を遠方に向けて、何を眺めているとも知れない。
(「道化とウェヌス」)

 彼は、「英雄的な死」において、退屈する王の機嫌をとる道化を描き、その一方でモデルニテにおける道化が従順な慰み者ではないことを書く。彼は、『笑いの本質(De l'essence du rire)』(一八五八)において、「有意義的滑稽」と「絶対的滑稽」という対立を提示している。前者は人間の振る舞いによって引き起される通常の笑いであり、後者はグロテスクさによって沸き起こる深遠で原始的な笑いである。この種のブラック・ユーモアは、「無能なガラス屋」で描かれる悪ふざけのように、散文詩に顕著に見られる。この笑いは彼をダンディではなく、新しい時代の住人であることを示している。

 『一八四六年のサロン(Salon de 1846)』(一八六八)によると、芸術家は過去の神話ばかりをテーマにしてきたが、それはもはや「頽廃」にすぎない。近代都市の中にも、聖書やギリシア=ローマ神話に匹敵するような主題がある。と言うよりも、古代の偉大な神話の英雄も同時代のブルジョア社会を生きる人たちとさほど違いがない。

 パリのような近代都市には人が溢れかえっている。その中では英雄も、ダンディも、スノッブも見分けがつかない。一つの群れ、すなわち「群衆」の一人でしかないからだ
 エドガー・アラン・ポーは小説『群集の人(The Man of the Crowd)』(一八五〇)をいち早く執筆し、群衆が近代の象徴であり、その生活様式にほかならないことを明らかにしている。彼らは結果として群れているのではない。群れること自身に目的がある。

 その愛読者も、早速、この新しい存在である群衆について書かずにはいられない。

 群衆に沐浴みするというのは、誰にでもできる業ではない。群衆を楽しむことは一つの術である。そして人類をうまく利用して生命力を大いに飲み食いできるのは、ただひとり、揺藍にあった時、仙女から、仮装や仮面への好みや、己が棲処への憎悪や、旅への情熱を吹きこまれた者のみだ。
 群衆、孤独。活動的で多様な詩人にとって、たがいに等しく、置き換えることの可能な語。己の孤独を賑わせる術を知らぬ者は、忙しい群衆の中にあって独りでいる術をも知らない。
 詩人は、思いのままに自分自身でもあり他者でもあることができるという、この比類ない特権を享けている。一個の身体を求めてさまようあれらの霊魂たちと同じように、詩人は、欲する時に、どんな人物の中へでも入ってゆく。彼にとってだけは、すべてが空席なのだ。そして、ある種の場所が彼に閉ざされているように見えるとすれば、とりもなおさず、彼の目から見て訪れるに値しないものであるからだ。
 孤独にして思索を好む散歩者は、この普遍的な融合から、一種独特な陶酔を引き出す。群衆とたやすく結婚する者は、金庫のように閉ざされたエゴイストや、軟体動物のように殻に閉じこもった怠け者などには永久に与えられことのないような、熱烈な享楽を識るのである。彼は、めぐり合わせが提示してくれる職業のすべて、歓びのすべて、悲惨のすべてを、自らのものとして受け容れる。
 人間が愛と名づけるものは、この筆舌につくしがたい饗宴、すなわち、詩となり隣人愛となった魂が、目の前に姿を現す思いがけぬもの、通りかかる未知のものに、己をすべてを与えつくす、この神政な売淫に比べれば、まことに小さく、まことに限られており、まことに弱い。
 この世の幸福な人々に、彼らの幸福に優る幸福、より広大でより洗練された幸福があると、時おり教えてやるのは良いことだ、たとえ彼らの愚かな誇りを一瞬辱めることにしかならないにせよ。植民地を築く人々や、民族を牧する人々、世界の涯に流調の身の宣教師たちはきっと、こうした不可思議な陶酔について何ほどか知るところがあるだろう。そして、彼らの天才が自らのために作り上げた巨大な家族のさなかにあって、これらの人々は、かくも波瀾多き彼らの運命やかくも純潔な彼らの生活のゆえに彼らを気の毒がる者たちのことを、時おり笑っているに違いないのだ。
(「群衆」)

 彼にとっての群衆は、ヴァルター・ベンヤミンが指摘する通り、新しいパリの住人を指している。欧州の都市の中で、人口が一〇〇万人を越える大都市は二〇世紀初頭でさえロンドンやパリ、ベルリン程度である。ポーが直面していたアメリカの人口密集とは比較にならない。けれども、パリの群衆はアメリカの群衆と共通点がある。

 群衆は近代化=工業化の産物である。農村の余剰人口を都市が吸収して、産業化が促進される以上、都市の人口増加はそのバロメーターの一つと考えられる。一九世紀に起きた農業革命は慢性的だった欧州の食糧難を解決する。フランスの労働人口に占める農業従事者の比率は一八二〇年が七五%であったのに対し、一八七〇年には四九%にまで低下している。また、農村人口と都市人口のパーセンテージは、一八五一年に七五対二五であったけれども、一八八六年になると、六四対三六に変化している。

 欧州は、主要穀物として、小麦を栽培してきたが、小麦は連作ができない。最初は、耕地の半分を休耕地とし、飼っている牛や羊にそこで運をさせ、地力を回復させる二圃制が一般的だったが、一〇世紀から一一世紀頃に、全耕地を春耕地・秋耕地・休耕地に三分する三年ローテーションの三圃制が普及している。

 ヨーロッパの食事にパンと乳製品の組み合わせが見られるのは、こうした事情によるところが大きい。

 一九世紀初頭に、豆類と一緒に栽培すると、休ませなくてよいことが発見される。後に、豆の根についている根粒バクテリアが窒素を供給してくれるからだということが解明されている。

 植物には窒素が不可欠だが、それをアンモニアとしてとりこんで、用いている。しかし、窒素は大気中の成分の七八%を占めていても、三重結合をしているため、窒素分子は非常に強く結合している。その結合を解き、窒素固定をしなければならないが、これは微生物にしかできない。

 この農法の発見により、ヨーロッパの食糧事情は劇的に改善する。食糧の増産に伴い、人口も増えていく。

 都市化の進展は、産業革命を通じて、経済生産や社会生活を大きく変える。農業中心の経済から工業を要とした産業構造に基づく経済システムへと転換する。不況は農業生産物の不作ではなく、工業製品や設備投資の過剰によって起きる。飢饉と餓死に代わり、倒産と失業という新たな危機が人々を苦しめるようになっていく。

 ただし、フランスは、他の欧州諸国と比べて、工業化の変化が緩慢である。近代は量の時代であり、人口は国力の目安の一つである。欧州は、一九世紀の一〇〇年間を通じて、全人口が約一億八〇〇〇万人から四億二〇〇〇万人へ増加している。ヨーロッパにおいて、国勢調査を通じて人口が把握されるのは一九世紀後半になってからであり、一九世紀初頭のデータはあくまで推定である。しかし、フランスでは、一九世紀以来、すでに少子化が始まり、高齢化の傾向も現れる。人口の伸び悩みは国力の低下につながると懸念され、政治問題化している。産業の高次化を進めようにも、労働人口が不足し、フランスはベルギーやイタリア、スペインなどの周辺諸国から移民を受け入れるようになる。フランスは、程度の差はあるものの、合衆国同様、移民の国であり、パリの群衆には多くの移民が含まれている。

 移民によってフランスは工業化を達成するが、それは移民排撃の始まりでもある。既存の労働者は、移民が労働争議の際にスト破りに使われる、あるいは賃下げの口実に利用されるという理由で移民の導入に反対する。それどころか、実際に、移民が襲撃されることさえ少なくない。

 群衆の中で、過剰な価値観が暴力的に衝突し、融合していく。聞こえてくるのは、アカデミー・フランセーズが認めるようなフランス語ではない。お国言葉や外国語訛のフランス語、あるいはまったくの異国の言語が飛び交っている。お互いに癇癪を爆発させている。こうした過剰さを語るのにダンディではあまりに高踏しすぎている。


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